あのレンタカーには少しも手を触れず、昨日は別の車で東京武蔵野方面へ向かいました。
天気予報では火曜日よりは好天のようでしたので。
朝も温かく絶好の墓参り日和と踏んだのでした。
奥方の実家とその母方親類二家が入る府中の大規模霊園です。
武蔵野といえば霊園墓地が各所にありますが一昨日は法務で小平霊園に息子が行っていたといいます。
小平も府中も広大すぎて、お参りのインターバルが開いてしまうと、まったくその記憶が飛んで自身不明に陥ります。
昨日も区画地図はわかっていても現地に行って30分は墓を探しまくりましたね。
思ったことは以前より方向感覚と記憶がかなり落ちている私があるということ。
結局はお参り経験の多い奥方が墓を見つけ出しましたが、まさかと思うほど私のそれまでのイメージが違っていて「これこそ齢」なのかと寂しくもなりました。
それにしてもあそこも放置されたままの墓地が多数見受けられましたが、時間というものは罪なものとあらためて感じるわけで・・・。
亡き人に対して当初は悲しみを表したとしても時間とともにその悲しみは消え、その埋葬の地は荒れ果てて放ったらかしの草ぼうぼうの様子。
「なんだ今年の3月なのにこのざまかよ」などと他家の墓石の銘と枯れすすきの無常を見て奥方は笑っていましたが、逆に言えば
「痛みは癒えて既に歩き出している」ことでしょうからね。
ただし私たちは「忙し」はその理由にしていけませんね。
「心を亡くしている」ことですから。
さて、丸子の件、先日の史跡研究会の増田氏から「桜を見る・・・」なんたらのマヌケ話の可笑しさ転じての「梅」の考察が始まったのですが、そのおそろしいほどの梅の種類の知識に呆気に取られました。
その中で静岡丸子の梅林についてその維持管理の難しさについて語っていましたが、静岡では結構に有名な場所。
その梅林からほど近い丸子川、旧東海道いわゆる丁子屋のウラ(どちらが表でウラかは立ち位置次第)になりますが細川幽斎(藤孝)が秀吉の小田原攻めで東上した際、そちらで歌ったといわれる歌の碑があります。
ガソリンで走る鉄の四つ足馬も高速道路もましてや橋も架からない時代に日本列島を東へ西へと戦場を駆け、それでいて歌人として文化教養の人として名を残しかつ勝ち組をわたり歩いた人でした。
天気予報は大ハズレ。武蔵野は曇天で帰りは雨降りにあう始末。そして気温は相良より3℃は低いでしょうか格段の寒さを感じました。
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