本日より師走。
昨日当遠州の朝は今季一番の寒さでした。
当然ながら本堂の寒さも一番で微かながら吐く息が白くなっていました。
よって法要参集の皆さんのために慌てて大型ストーブを引き釣り出してど真ん中に置きました。
法要終了後の歓談タイムを拝見するとそのストーブを囲んで円形に席を作っていたほどでした。
さて、昨日記した安西然正院の墓碑の銘文を判読するにあたって
少々疑問に思った箇所があります。
それが画像①の赤線箇所。
昨日の
「安政五戊午年八月萩原四郎兵衛久訓奨成其恋(慕)」の「恋」の部分。その次の「(慕)」の箇所は判読不能につきその字をあてたという次第です。
その「慕」はその上の文字を「恋」としたことからの類推ですが、そもそもその文字は「恋」なのかで叔父と話あいました。
「志や意」にも読めなくはないがアレはどう考えても「恋」であるということで収まりました。
ということでこの文字を見て、もしや「今時の歌謡曲の歌詞じゃあるまいし・・・」と一笑に付されそう。
そんなチャラそうな文字の使用はオカシイだろ・・・との指摘がありそうですね。よって一応その件付け加えることにしました。
文字の解釈もその字が与えるイメージも時代を経ると微妙に変化し特に明治期以降の各文字の捉え方も変わってきている様子は感じ取られるところですが今のその「恋」などいう文字のイメージはやはりあまりにも軽い感じがします。
やっぱりオヤジの口から発するに大いに周囲を憚る必要のある語です。
ただし古くから使用されている文字で特に600年代後半の九州沿岸に徴用された防衛隊、防人歌(万葉集)にも多数登場しています。
ひな曇り碓日の坂を越えしだに妹が恋しく忘らえぬかも
後れ居て恋ひば苦しも朝猟の君が弓にもならましものを
我が妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えてよに忘られず
防人の堀江漕ぎ出る伊豆手船楫取る間なく恋は繁けむ
我妹子と二人我が見しうち寄する駿河の嶺らは恋しくめあるか
常陸指し行かむ雁もが我が恋を記して付けて妹に知らせむ
橘の下吹く風のかぐはしき筑波の山を恋ひずあらめかも
我が門の五本柳いつもいつも母が恋すす業りましつしも
ひな曇り碓氷の坂を越えしだに妹が恋しく忘らえぬかも
島蔭に我が船泊てて告げ遣らむ使を無みや恋ひつつ行かむ
家ろには葦火焚けども住みよけを筑紫に至りて恋しけ思はも
家にして恋ひつつあらずは汝が佩ける大刀になりても斎ひてしかも
「防人」は過酷な兵役。家族縁者との別れは死別にも等しいものがありますね。二度と会えぬかも知れぬ、その思いですね。
そして当流には以前記しましたよう御伝鈔下 第六段「洛陽遷化」に「恋慕涕泣」(れんぼていきゅう)という語があります。
亡き親鸞聖人への人々の思いを表したものですね。
ということであの墓碑の文字を「恋慕」と解したのでした。
それはやはり私のその文字「恋」に対するイメージが現代に流布しているそれとは変わって―もっともっと深いー死と生というような超えられない別の世界に居る者たちがその相手を「心から思う」状況を表現した文字だと思ったのでした。
また「恋しい」は「実現できないその思い」ですね。
ということは・・・世に流行っていた「恋人」などの語はその感覚でいえば「二度と会えない人」という意でなくてはイケません。
思い出すのはその語が冒頭から出現する「木綿のハンカチーフ」というのがジジイたる由縁か。
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