安西然正院の墓域には「駿河府安西然正院」と「安西」の名称のほか、「今川義元」の名まで登場する墓碑があります。
「新たに墓石基壇を」と安政五年1858にこの長方体の石材を追補したことのほか然正院に関わる情報が記されています。
この墓石は当初からこの形式であったのか静岡空襲など人為的な災難や地震などの天災によって崩落しての積み間違いがあったのかはわかりませんが不思議な形状であることは一目瞭然。
もとの墓石の形状が宝篋印塔であったことは推測できますが、銘の刻まれた新造の基壇を除いてその上に積み重ねられた石材は素材も時代もまちまちに感じられます。
基壇スグ上の2パーツはそのまま正逆反転すれば宝篋印塔の隅飾りと筒身のスタイルの様、おそらくこちらが本来の「然正院智現妙本大姉」の墓と推測します。
その上に積まれたアンバランスかつ摩滅の激しそうな石材も宝篋印塔の笠(隅飾り)のように見えます。その上部の宝珠らしきパーツは新しめの装着でこれは本来の宝篋印塔にあるべき相輪の代わりということでしょう。
要は取りあえず・・・という具合にどこかの時点で積まれたものが今に伝わっているのでしょう。
宝篋印塔はこの相輪部分が真っ先に破損あるいは欠落して失われますからね。
ただしどちらにおいても五輪塔・宝篋印塔・宝塔のパーツ混同追補はお見受けできますがこの容姿は初めて拝見させていただきました。
この墓石に関しては美的センスを問うより後補の石材に記された銘が面白い。
それが以下の通りです。
當山
然正院智現妙本大姉墓
開基
然正院智現妙本大姉者故国守 今川
義元朝臣老臣福嶋淡路之妻也嘗帰依
我故嶽文公和尚創建一宇而請住焉即
當山開基是也大姉以天正二甲戌年八
月廿日没星霜久遠墓碑殆頽壊予住山
以来十有餘年夙夜以為愁適會檀越萩
原氏此を歎建之而至今茲安政五戊午
年八月萩原四郎兵衛久訓奨成其恋(慕)
新築檀座補修墓碑以永報其霊徳云爾
駿河府安西山然正院現住哲仙識
幕末の安政五年に改められたということで彫りも残って判読しやすいのもおすすめです。
たくさんの墓石の中からどう探すかですが、まぁざっと歩けばカンタンに見つけることができるでしょう。
新しい墓石が殆どでその中であの姿を探し出すことはそう難しくないでしょう。ただしお寺にはこの墓碑の存在を示唆すら、しようとする意図はないようです。その分十分にあの墓碑はその存在を主張しています。
安政五年の段階で伝承されている情報が詰まっているワケですが、そのベースとなった元の存在の有無についてはわかりません。
その記された銘によればこの石塔は
①然正院智現妙本大姉(昨日)の墓であり
②然正院という寺の開基であってその法名を寺号としたこと
③その人の夫が今川義元の家臣の福嶋(福島)淡路守―福島正成ー高天神城主(ただし「義元」は端折りすぎか)
④その然正院は天正二年(1574)甲戌年八月廿日没
⑤ここで初めて水月堂の縁日に「おはつかさん」の意が判明
⑥新墓壇は萩原四郎兵衛久訓なる檀信徒の働き
尚、墓碑の「今川義元」の記述の件、江戸期末だけにOKなのでしょうね。敬意尊敬の主家の実名明記はあり得ませんしまぁ、時間も経っていることでとりあえずその名を出しとけ・・・というようなところでしょう。
尚名前の直前に一文字開ける「闕字 欠字」がありますが、それが敬意表明。そのルールにはのっとっています。
余談ですがそれよりももっと厚礼に「平出 へいしゅつ」という記し方があります。そちらですと改行して先頭に記します。
そもそも古文書の改行はまちまちで統一性がありませんが一文字開いたら「敬意」ですね。摩滅して文字が消えている場合もままありますが。
文末は「云爾」(うんじ)。「しかいう」と読んで、いわゆる締めの言葉。「これにほかならぬ」です。
また滅多に使用しない言葉に「夙夜」(しゅくや)が出てきましたが「 朝から晩まで」の意。
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