然正院の山号 安西の名称 高天神の跡を尋ねて

昨日の駿府安西「おはつかさん」の続き。

静岡市葵区の「安西」なる街区の名称に「西方極楽浄土の安き心」と勝手にイメージしていましたがそれはまんざらでもなさそうな気が・・・

そちらは駿府城から西に安倍川を渡って建穂に向かう街道です。安倍川までのその通りを「安西通り」と呼んでその通りに肉付きするように南北に細長い街区をつくるのが「安西」になります。

安倍川東岸にあたりますので、その川(安倍)との位置関係での名称ではなさそうです。

またその東側には「安東」なる街区もありました。

 

昨日はその安西通りの南側にある水月堂―おはつかさん―について記しましたが「今川家の臣福島淡路守の夫人然正院智現妙本大姉の開基」と掲げられていました。

 

小貫意正院の寺号が小笠原義時の法名からとられていることから寺の縁起開基というものが推されたのですが、こちら安西にはその院号「然正院」と同じ然正院という寺があります。

まさに駿府城の「西」にあたりますが、このお寺も然正院智現妙本大姉の開基のお寺です(場所はこちら)。

 

首を傾げるところは現在は「鳳凰山然正院」という山号のようですが、以前の史料には「安西山」とあります。

となるとこちらのお寺の山号が街区の名称の発祥か・・・

 

さて、昨日も記しましたように今川家臣福島氏については不詳の点が多くまた史料によって違ってくるようですが、私の高天神城に関わる件、その情報は「高天神の跡を尋ねて」ですね。

 

そこで今川時代の高天神城の記述をそちらから復習のために抜き出せば・・・

「応永二十三年、関東管領足利持氏(→三の姫さま)が弟持仲と戦乱を交えた時、持氏が駿河の今川泰範にたすけを求めた際、持氏応援のために叔父の貞世(了俊)と談合して子の範政に鶴翁山高天神に城を築かせ家臣の山内玄蕃正通忠を城代に命じ通忠は永享元年まで12年間在城した」とあります。

 

この辺りも不祥な点が多いのですが、続けて高天神に入ったのが福島佐渡守基正。

「八代将軍義政の頃、文安三年に今川氏の家老、福島佐渡守基正(善九郎、左衛門太夫とも)が城主に。福島氏は九島とも称した。清和源氏頼光、頼国の後裔で、馬場氏の流れ、摂津西成郡福島庄に住んだ氏盛が福島と称し、その裔が駿河の今川氏に仕えたのが始まり。

そののち享徳三年1454に基正が今川範忠の関東出陣に従って山内通忠が城番。」

「応仁・文明の争乱に及んで文明三年1471、福島基正の子上総介正成、父に継いで城主となり駿河の丸子城主を兼ねた。文明八年美濃、関の二世刀匠兼明が高天神に。同年塩買坂にて今川義忠討死。時に嗣子竜王丸幼少のため、義忠の従弟にあたる今川新五郎範満が駿府に入って今川七代の継嗣を名のって今川家は内紛に陥った。」

 

「正成は竜王丸の母北側殿とその弟(兄とも)伊勢新九郎長氏(伊勢宗瑞)と協力して、七才の竜王丸を居城丸子城に迎えて擁護した。永正十七年1520(大永元年1521)、主君氏親、甲州出陣(兵15000)に従い武田信虎と戦い、氏親の身代わりとなって飯田河原峰の城にて戦死した。院号を玉仙、法名を華岳という。

 

そして「鳳凰山然正院」の項。

「安西町に安西山然正院がある。今川家臣高天神城主福島淡路守(上総介正成)が甲州飯田河原に戦死した後、夫人が聖観音を信仰して建立したもの」とありました。

 

山号がここに二つ出てくるワケですね。ダブルスタンダードです。そして「西」の件、私はてっきり・・・と思っていた阿弥陀さんではなく観音さん信仰の人だったようです。

そういえば昨日の水月堂も千手観音でしたね。

お寺の紋は二つ引きと足利系(今川)を匂わせています。

鉄筋コンクリートの本堂は以前も記しましたが静岡大空襲によってこちらは焼け野原になっていますからおそらく・・・。