小貫意正院 小笠原玄蕃允義時(清広の子)の墓

国連の温暖化対策の年次報告書の件。

昨年の世界の温室効果ガス排出量が553億トン(二酸化炭素換算)だったと。これはその前年に続き過去最高の更新です。

この数量についてド素人の私にはまったくピンと来ませんが、「パリ協定」(温暖化対策の国際枠組み)で定められた、「産業革命前からの気温上昇を「1.5度にとどめる目標」を達成するに、各国が合意した排出量削減量を5倍に増やさなければならないといいます

 

このまま何もしないでいれば2030年に気温が「3.2度上昇」するといいますが、そんな目標(1.5度)などできるとは到底思えませんね。やはり天変地異の多発色々は結局のところ「自分で自分の首を絞めている」ことに相違ないということで。

哀れな人類は「地球に火が付いている」ことに気付かずにいるそれぞれのマヌケな為政者のために滅亡の途を歩まされているのでしょうね。

 

浄土宗の観通山意正院には高天神城小笠原一統の墓があります。こちらのお寺には小笠原家に関わる什物と家系図が残っているといいます。

 

墓は小笠原惣兵衛清広の子、玄蕃允義時のもの。

義時は天正二年の高天神城開城後、西退組(家康方)として退城して大須賀康高に属して横須賀藩に仕えた(「高天神の跡を尋ねて」)とあります。

元和三年三月十二日卒去しこの寺に埋葬されたといいます。

子孫は紀州に仕えてのち八代将軍吉宗の時、五千五百石を以って旗本と。

お隣は一統の小笠原良忠の墓。

 

義時の父、清広は小笠原春義(春儀、春茂)の三男。

兄弟に小笠原氏興(氏清)に義頼がいます。清広はそもそも勝頼包囲網高天神城戦(通称第一次高天神戦)の際、浜松の家康に援軍を要請に行ってそのまま人質になっていた人。

高天神上帰還を許されなかったことが幸いしたのかはわかりませんが高天神城は落城し、「勝頼の差配」があった(東退か西退の選択の自由)のですが、結果的に家康側に付くことになったわけですね(関連→養徳院)。

 

ちなみに高天神城を開城し武田勝頼の誘いを受けて富士に下った小笠原信興(長忠)は高天神城では最も名が通っていますが滅亡の途を辿っています(彼の父が氏興<氏清>)~小笠原家継承は義頼の系~。

 

図式にするとわかりやすいですね。

意正院の小笠原家系図を拝見したいものです。

 

①はかなり前の門前参道。「高天神」が光っています。

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コメント: 2
  • #1

    がつお (水曜日, 27 11月 2019 12:34)

    少し興味があったので、意正院の小笠原家系図ではないですが国立公文書館の諸家系図を見てみました。
    以下御存知のことかもしれませんが義時の子良忠の「下げ札」によると
    意正院は義時が開基でそれ故義時の法名「観通意正居士」が山号院号だとしています。
    また、良忠の法名は「臺屋生蓮居士」で死亡日は慶長九甲辰年六月廿六日(寛政譜も同日)と記されています。(墓碑と少し異なります)
    義時の「下げ札」も面白い内容です。ただ、これは寛政譜には反映されていないので幕府公式としては採用されていません。

    もし、ご興味があれば以下の史料をご覧下さい。(デジタルアーカイブで閲覧できます)
    [請求番号]156-0023
    [冊次]76
    諸家系譜 小笠原1 西丸御小姓組番頭 小笠原安房守(P75~)
    義時はP96 良忠下げ札はP103

  • #2

    今井一光 (水曜日, 27 11月 2019 21:33)

    ありがとうございます。
    そしてアーカイブ資料閲覧の紹介、ありがとうございます。
    山号と寺名と義時の法名が同じであることはこの寺の建立の由縁が推測できるというものですね。また良忠の法名とそちらの差異を見てもそうですが、二基の五輪塔はおそらく同時期に建碑(火輪に梵字を記す形式)されたことが推測され、後補らしき石材はじめ当時の古さというものを感じられませんね。
    良忠の墓がこちらにあることにも違和感があります。
    父清広の没年も異論があるようですし説が混乱しているようでもあります。
    顕彰的意味合いもあるのでしょうね。
    そしてやはり碑文の良忠の法名は「誤字」のような気がします。
    系譜記述の如く「居→屋」でしょうね。