台風19号の被災地は広範囲に及んで、まだまだ世間表に出てこずに苦痛を味わっている方たちがいるようです。
あまりにも衝撃的なシーンが数多、ソースが豊富すぎることもあるかと思われますが実は、人知れず忘れ去られたような地域もあるような気がします。
私ども静岡に住まう者として台風コースの直撃を免れた事はある程度の覚悟をしていただけに喜ばしく思いかつその被災については軽微、もしくは無い同然に受け止めていましたが、時間が経つと案外に床下・床上浸水の被害は「実はあった」との報が入っています。
牧之原市内でも男神で人命が失われたというニュースは伝わっていましたが河川の氾濫、決壊はありませんでした。
ただしどちらの小河川に隣接した地域に住まう皆さんに聞けば、満潮時間が微妙にズレたことと雨が小降りになったことが功を奏し、ギリギリのところで浸水は免れたと。
あと少し降雨の時間が延びまたは降水量が強ければ「まずはアウト」というくらいに危うかったよう。
やっぱりたまたま偶然、「運は天」だったのでしょう。
河川の恩恵といえば利水・排水のほか上流域から流れ込む栄養分ミネラル分があげられますがその栄養の補充のメカニズムはただただ「洪水」によるもの。
洪水はときとして下流域の農作物を流しますがその際、耕作者としてはその時の無収穫リセット状態は我慢、「ここは一つ肥沃の大地をもたらしてくれた」という前向きな思いに変えて次の大きな収穫に期待を抱いたものですね。
それが古くからの大水との付き合い方でした。
人々の住まいはといえば平坦な場所ではなくて谷から立ち上がった段丘や単立丘の上というのがお決まりのパターン。
そういった住まいと耕作地が分けられていたものなのですが、私たちはいつしか川の流れはコントロールできるという過信を得て「私は大丈夫」の意気で堤のすぐ脇にまで住空間を広げてきたわけです。
極端なカタチでいえば河原やその延長の平坦地は耕作地か墓地。人はそれらより高い位置にいるというのが当たり前だった時代があったのですが今はそれが完全に逆転しているかと。
旧東海道安倍川左岸からの図を記しましたがその道を手越宿に向かって安倍川を渡ります。
安倍川右岸域は藁科川との合流があり両河川とも歴史的に地元先人たちの「氾濫と治水」に対するご苦労が伝わっています。
またその藁科川に関して、私はこれまで現在の如くの安倍川への合流はなく、並行しながら駿河湾に注いでいたと断片的に聞いてきてまた、そのように思っていましたが、実際のところボーリング調査をしての結論ではなく周辺地形から考えて今も昔も藁科川は安倍川に合流して下流域は1本の流れだった可能性の方が強いようです。
てっきりこの辺りの東海道は「2度川を渡る」ものだと思っていました。
そういえば手越宿に入ってスグの位置に段丘が張り出していますから藁科川の流入場所は限られますね。
その丘の上は現在お寺の墓地。
手越住民の有効な避難地になっています(場所はこちら)。
①は手越に入る直前の信号待ちの車内からの合流域あたり。
最後の画像が安倍川に藁科川が合流の図。
静大の小山真人教授のサイトから拝借しました。
お天気次第では③画像に富士山が見えるのですが。④東海道新幹線が見えます。
「手越駅」は旧宿場「手越宿」の別名。
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小山昭治 (火曜日, 22 10月 2019 11:24)
写真に写る「木枯らしの森」懐かしいね。
安倍川橋の少し上流の河原には「朝鮮人部落?」がありました。
藁科川の上流、株田にも友達がいて、民宿?に泊り
お酒を飲んで騒ぎました。人里離れた家なので騒いでも何をしても
OKの宿泊所でした。
駅から高校行のバスは「手越原」行きのバスもありましたが、
終点まで乗ったことはありませんでした。
今井一光 (火曜日, 22 10月 2019 18:38)
ありがとうございます。
藁科川の安倍川合流域の代名詞の「木枯森」は「知る人ぞ知る」のところがあって
私のその「木枯」のイメージと言えば「上州無宿」(笹沢左保 「木枯し紋次郎」)の方が馴染みがあってその名を知るようになったのは静岡に行き来するようになってからです。また時々地元テレビ局で扱いがあってその際に耳にしてはいましたが。
余程の踏ん切りがつかない限り行くことができないというか「気軽に何気なく」という場所ではありません。
天気の良い日に遠くから景色を見て楽しむのが一番ですね。富士山といっしょかも。
手越宿の名称も歴史の中でしかお目にかかることはなくなりました。