さすがに本日開催予定の史跡研究会の会合はお流れ。
そもそも史料館が臨時休業となりましたから。
またあの横殴りの風雨の中どう考えてもあちらに行くなどはありえないという状況でした。
気象庁の発するスーパーコンピューターを駆使した進路解析は素晴らしく、微妙な変針も計算されているのでしょうがまったく予想通りでした。
とにかく安堵したのは当地に限って言えば目と鼻の先ではあったものの直撃は免れてしかも進路の西側となったことでしょうか。
一日中家の中でテレビから報じられる台風情報に気を取られていましたが、東側のサッシから浸水がありました。
雨戸を閉めているにも関わらずのことでしたから外壁からの雨水が風圧で内部を伝わったのでしょうね。
通過後の「返し」の風雨で庫裏西側の雨漏りも警戒しなくてはなりません。
外のごうごうという風と叩きつける雨音のためテレビの音量を上げ尚会話もデカい声になりがち、喉が痛かったですね。
その報道番組を見ていて「ン?」と思ったこと。
相模川上流の城山ダムの「緊急放流」のニュースです。
下流の市町(海老名・寒川・平塚・茅ケ崎)に住まう人々に「気を付けて」の親切なのでしょうか。
そもそもその時間帯は大潮の満潮時期、「よりによって放水を今するかよ・・・」の疑問でした。
相模川下流の人たちからすればたまったものではないですね。
するとその発表後に「やっぱりまだ大丈夫だから・・・あとにする」風のアナウンス。そこのところやはりありがちなお役人のマニュアル第一のガチガチのお頭の中を垣間見たような気がしました。
どちらにしろ深夜に(満潮時は避けて)放流するようですがダムに水が溜まるのは予測できること。
もっと早いうちに小出しに放出しとけばそれで済む話では・・・などと素人考えが思い浮かぶのですが。
まぁ、「やっぱあとにします」は下流にお住いの方が「ふざけんな」のクレームを入れたからだなどと考えてしまいます。
しかしもしそうならこれまた可笑しな話。
カンタンに止められることだったの?とも思いますし溜め込んだ水を今度は一気に放出するの・・・?
人のやることはいろいろわからないことばかりです。
あかるくなって色々あきらかになるのでしょうが、恐ろしい思いをしました。
「緊急放流」は下流でサイレンが深夜に鳴り響くことになりますので枕を高くしてなど眠れたものではありませんね。
さて、こういった自然の猛威を体験するに毎度思うことといえば「ご先祖さまの苦難いろいろ」です。
スーパーコンピューターの分析からその他情報というものが皆無の中、自然とのおつきあいの厳しさは想像を絶するものがあったでしょう。
何せ「予知警戒ナシのイキナリ」ですからね。
早めの対応が功を奏するものですが、それが「無い」に等しいのですから。
ただし昔の人たちは「災害」はいつも隣り合わせにいて嵐の襲来など当たり前の気持ちでいたのでしょう。いつ来てもイイくらいの・・・
「伝承と経験に裏付けられた知恵」とでも言いましょうか。
当地遠州近隣における水害といえば菊川、旧小笠町辺りを思いつきますが昨日たくさんの河川の危険水域超えの情報が入る中真っ先に「氾濫」の報があったのが菊川支流牛渕川左岸(横地)でした。
拙寺はかつてその菊川支流の上小笠川(下内田)近くにあって高天神城戦で徳川方の陣となって焼失、その地に再建することなく家康のお誘いもあって相良の大沢の地にやってきたという歴史がありますが、やはりその地の水難に悩まされていたこともあったのでしょう。
結果的に徳川さまに恩を売ることとなって「相良に来たれ」はまさに渡りに船だったのかも。
旧小笠の菊川が削って作った平地は「水難当たり前」の地だったのです。
まぁ日本全国どちらにもあるような地形ですが。
なお画像は以前の使いまわしも。
今回氾濫した牛渕川左岸で思い起こすのは堤城です。
もう少し上流だと思いますがその「堤」が切れたのでしょうか。「堤」こそ肝心要。その構築と維持に腐心してきた人々の歴史が見えてきます。
①は牛渕川の橋の手前からの堤城。②は堤城から見た牛渕川左岸の住宅地。左前方が塩の道に沿っての相良方面。
④は黒田代官屋敷にある舟。この地域には水路が巡り「水運」の優位性を享受しまた、その裏腹、「水難」の地であったことが推測できます。
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