昔のいろいろ~人の営み、歴史~について、ご先祖さんや地元のの「良くない過去」を引っ張ってきて今何かするときの判断や交渉の材料とするというのは結構にありがちなことです。
それを掲げられた者としては要は「過去の話」ですから、「聞いてないよ~」でまったくピンときません。
まずは「寝耳に水」ですね。だいたいそのようなこと持ち出すことの相手のセンスをも疑って関係は一層ギクシャクするのみ。そしてまた、さもありげな因縁譚を構成するというのもその傾向です。
たとえば戦国期の激戦地で現在病没する人が多いのはあの戦いで死者がたくさん出たから・・・など。
論拠に欠しくまた400年も前の事件を持ち出されて「その地は不気味」の烙印を押されるのは不愉快千万でしょうね。
人が死ぬ(生老病死)のは当たり前の事でたまたまの振幅でそれを「あの理由」とやらをこじ付けるのは相当に無理があると思うにもかかわらずです。
話は飛びますが、古い話を持ち出して「え~っ?」というような吃驚してしまうような「まさか」な件があると聞きます。
昨日お寺に来られた方にお聞きした話です。
掛川市に旧大東町(以前は大浜町+城東村)が合わさってありますがその周辺には当ブログでもちょくちょく使う言葉「高天神崩れ」なる武田方現地帰農組(旧来今川系も多し)が集うエリアがあります。そちらでは隣接する新顔入植組の徳川方としばしば争論が起こるといいます。
400年の経過が嘘のように新鮮ですね。
よって「だから今でも旧大東と旧掛川は仲が悪い」というところに行きつくようです。私はその手の件は初耳で「それは面白い」とニヤリとした次第。
それ以上に「こりゃ面白い」と口を開けてしまったのは福岡みやま市の市長が「祖先の行いによってその子孫が心身を病んだり、犯罪者を生んだりする」といった持論を幹部研修会の資料として配布したとのこと。
後日「反省」したそうですが、ぶっちゃけ「今時スゲー事を言ってのける」と感心までしてしまいました。
道徳論の展開に「因果応報」の極めつけの推測を列挙しての論理だったそうですが、少なくとも真宗の坊さんではその手の考えは思いもつきません。
それは御開山の<極め>が「悪人正機」と「他力」だからです。
その市長さんは市民にどれだけの善行を積めと言うのでしょう。また「心身を病んだり、犯罪者」の父母先祖はまず「ロクでなしだった」の烙印を押すようなものですからね。子供たちにはまったく関係なし。
九州男児の一本気には敬服しますが、やはり「スゲー」の一言でした。
さて、昨日ブログの墓地から。
あの墓地前の薄暗い道②を行けば右側に春日神社が。
こちらは興福寺・春日大社の息がかかる場所ですので神社といえば「春日」に違和感がありませんが、少々痛みが目立つ様。
こちらを歩いて墓石仏塔との出会いの機会は十分に用意されていますが人との接触は非常に稀ですね。
地域住民が少なければこういった小さな社殿は朽ちるに任せるほかはないのでしょう。
お寺もそういった流れはいずれ来ることはわかっているだけに他人事とは思えません。日本全国どちらにおいても散見されることです。
その神社の前の細道は大門仏谷への道で「如来形大摩崖仏」やその先に今は閉鎖されてしまった「山の家」があります。
昨日も記しましたようこの「仏谷」の字名から、荼毘所と埋葬所供養所があった?等々推測できますし、首切り地蔵の看板には近隣処刑場の示唆もあってこの森には一種独特の静謐を感じることができます。
その春日神社参道の先、左側に夥しいほどの石仏が並んでいます。それがいわゆる大門石仏群(場所はこちら)。
少々薄暗くて湿気た感じがなんとも言えないそれらしさ。
楽しい出会いをありがとう・・・でした。
蛇足、私のお気に入り・・・は
何といっても⑫⑬。どう見ても笑顔としか思えません。
私は「わらい地蔵」と勝手に命名。
人も笑顔にはリラックスすることができますが、堅いはずの石仏が顔を崩すように笑顔であったりするとあたかもこちらに迎え入れていただいているようで一層有難さが湧いてきます。
そして⑭は五輪塔×2を並べた板碑。
薄く肉彫りしていますが、夫婦墓を思います。親たちを見送った子の思いが感じられます。そして⑮小振りながら長方形花崗岩を彫りくぼめて阿弥陀如来風の肉彫りするは先日の首切地蔵と同様形式。
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