こちらも首切地蔵 実は阿弥陀さんしかも切れてない

午前に強く雨が降ったあとはほとんど降っても小雨程度。

庫裏に閉じこもりきりの一日というワケではありませんでした。

そして、このタイミングしかない・・・ということで近くの外科へ向かいました。

去年の今頃は土蔵整理の悪い空気を吸い込んでから夫婦で気管支喘息になって通院していましたが、「秋は病院」が定番になってしまいました。10月初めには人間ドックもあります。

 

外科医からは以前私の頸椎の手術に関して菊川病院への紹介状を書いていただきましたが、今回は医師に「左足関節の痛み」について訴えました。

ちなみに「頸椎」の方は菊川病院で手術前の精密検査と執刀日まで決めていましたが、その直前の精密検査の日に葬儀が入って一旦止めてもらっていました。

その後首の痛みは嘘のようになくなってこれまで無痛と無事に惚けきっています。この奇特なこと、私も奥方も首を落とさず(手術の失敗)に済んだのは故人のおかげであると感謝しています。首が繋がった・・・思いです。

 

「左」が痛いといっても比較があるので「右」もX線撮影します。すると外見上何の問題も無いが「軟骨がすり減っている」のだろうとのこと。要は齢のせいということですが、父も祖父も80すぎまで現役でこの仕事をし続けて「膝が痛い」などボヤいたこと一度たりとも聞いたことがありませんからね。

 

頤使りどんな時に痛みが出るかと問われますので「正座の時」と応えれば「じゃあ正座はしないことだね」と。

仕事がら「そりゃ無理だ」と返せば怪訝そうに「どんな仕事?」と返されました。

「しらざぁいってきかせやしょう」(白波)ではありませんがギャップが激しかったのか絶句していましたね。

 

「治らない」ということで次の診察の予約も処方の薬も無し。

しょうがないですね。死ぬまでその痛みと付き合う所存でいきましょう。「痛みは無視する」(ランボー)の気持ちが無いとこれから齢を重ねるごとに積みあがる痛みと不満の数々に対処できませんから。

 

「このタイミング」で外科医の門を叩いたというのは踏ん切り、思い切って・・・ということですが、これは町うちで唯一の外科で混み合う事このうえないからです。

2時間の間、殆どを待合室で立ちん坊。

足が痛くて医院に来ているのに椅子に座れないのは、何よりあきらかに私以上に座席が必要な方ばかりだということ。

またどちらさまも殆どが高齢年配者ですね。

まぁこの程度(正座が痛い)の症状で医師にかかろうとした私が甘っちょろかったということで。

 

夜はのんびりテレビ小僧。

BSの「英雄たちの選択」は河井継之助でゲストに大石学氏がお話しされていました。

長岡から会津に向かう「峠」の道を歩くというのも将来の夢ですね。

やりたいことがたくさんあって足が痛いー今のところ歩行には問題ありません―など言っている暇はありません。

 

それからNHK総合では日野富子。悪女のイメージ一掃でした。

 

さて、春日山原生林に「首切地蔵」なる名の地蔵がありました。まさに首が脱落したように切断されたような切れ目がありましたが、こちら当尾にもその名も同じ「首切地蔵」があります。

場所は昨日記した「やぶの中の三仏」の向かいをの辻を入ったところ。地区公民館、火の見やぐらの裏側です(場所はこちら)。

 

元々はこちらにあったものではなく、「大字辻」にあったといいます。

長方形の花崗岩に舟形に彫ってその中に阿弥陀座像が。

舟形内左右に「弘長二年(1262)壬戌卯月十二日刻彫畢 願主東小田原住□□□」と。昨日記した「やぶの中」の石仏と同一作者であるというのが通説です。

ちなみに「弘長二年(1262)壬戌」といえば当流御開山が亡くなった年でもありました。

 

当尾在銘石仏では一番古いといいますね。

面白いのはこちらの紹介にある「首切地蔵」なる名称は昭和53年の川勝政太郎氏の解説には一切そのような語はありません。

「東小会所弥陀石仏」(ひがしおかいしょみだせきぶつ)と。

実際には春日山原始林のそれとは違って首も切れていませんしそもそも地蔵ではなくて阿弥陀さん。

首切の理由としては①そのように見えた②元あった場所は処刑場だった、と現在の掲示板に記されていますが・・・

 

ということは・・・その今の通称は「首切」も「地蔵」もかなり

イイ加減な近年の命名かと思った所です。

とりあえず石仏なら地蔵、形容なら首切・・・「何でもイイ」けどそんな風に名付けたくなってしまうのでしょうかね。

 

①画像、こちらの殆ど対面辺りが「やぶの三仏」で奥の交差点を右に行くと「あたご灯籠」です。