千葉大変は想像以上に長引いています。
台風15号の通過以来その苦境にある人たちを尻目に同じ首都圏、そう遠くにはない永田町ではお歴々の皆さんたちは笑顔(大臣になって名誉~時におカネ~を得た?歓喜)のオンパレード。
イイ気なもので現在進行形被災者数十万人の件、「そんなこと どこ吹く風」の躰でした。
「国民の不幸は私の不幸」のスタンスが国政ギインさんのあるべき姿と思っていましたからここでも毎度の驚きがありましたね。「そんなこと、そんなもの」なのでしょう。
自分たちがハッピーならすべてヨシ。
あそこのタレントあがりの知事さんもどうなんでしょうか。
職業的差別はしてはいけませんが県民が長期の間苦痛に悶絶している姿を目の当たりにしていて、行政トップの手の打ち方、アナウンスは適切だったのか。
東京のお隣の県で品物は溢れているはずなのに・・・
あのゴルフ練習場の鉄柱も撤去が進まないようですが、行政は民事不介入とノータッチの様。そこを何とかしようというのが行政の手腕というものでしょう。「指導」というものをカタチだけでも・・・といったら語弊がありましょうが、「何もしない」というのはねぇ。
ややこしいことに顔を突っ込まないことが基本というのはわかりますがね。
傍から見ているばかりの皮肉屋の私で申し訳ありませんが、こればっかりはどうにもなりませんので、その苦難の数々を「次の私たち」の糧にし「漫然」を改めていきたいところですね。
しかし私の場合は殆ど「おまかせ」。
自然災害は一過性ですから。
一休さんではありませんがいずれは「どうにかなる」(心配するな)。
被災者の皆さん、所詮は他人事としか聞こえない言葉でしょうがあと少しの辛抱です。
せめてバハマを襲ったハリケーン並みの台風でなくて良かったと。次は私たちの番でしょう・・・。
その時、同情していただければありがたいですね。
また「禍福は糾える縄の如し」ですよ。
さて、滝坂の出入り口は奈良の中心地に近い場所。
まさかあの大混雑の裏側にあのような「原始林」が広がっていてたくさんの石仏たちがお迎えしてくれるなどと想像がなかなかできません。
その滝坂に歩を進める前には高円山の中腹にある白毫寺へどうぞ。私が歩いた時は椿の季節の終わりかけでした。
参道階段は明るく長さも程々。まさに輝いているが如く。
Led Zeppelin の「天国への階段」を勝手にイメージして門を潜って振り返れば、まぁそんな気分にもさせられました。
その歌詞に「There's a feeling I get when I look to the west」(西の方を見やれば私にはある思いが生まれ・・・)とありますね。
私は西方からは阿弥陀さんの声ですが。
そういえばお寺の本尊は阿弥陀さんでした。
この曲の詩にある「階段」とは「黄金の階段」でそれを「買う」という謎の女の人が出てきますね。不思議なところです。
なんでも光るものは「ゴールド」と信じ、カネさえあればいかなるものも(「階段」であっても)手に入れられるということ、人間の欲深さ、そうあっても結局は天国(死)に向っていることの皮肉なのでしょうか。
カネ(名誉)を抱いてあちらには行けないよ・・・。
まぁ日本にはこういった示唆に富んだ歌詞の歌謡曲はありませんね。聞く人の自由は言うまでもないことですが。
一番に驚くのはやはり「西」の件でした。
⑧はかつてあった多宝塔の跡。
白毫寺は明治維新後に例の廃仏毀釈でボロボロにされていたところを長州出の藤田財閥、藤田伝三郎が手に入れたといいます。
まぁあの歌詞の「階段」と同じようなものです。
自分の別荘に移築しその趣を独占して楽しんだのでしょう。
その手のものを引っ剥がして持ち帰ることのできる財力に驚かされますがそれ以上にそんな権威を恣意的に振舞えるそのバックボーンとやらにも・・・。
結局は後世その宝塔は焼失させてしまっています。
明治維新が無ければそのような大富豪は生じなかったでしょうし、宝塔はその雄姿を今も奈良市中にアピールしていたことでしょうね。
人の行いは往々にして空しい。
何よりおカネを大枚スーツケースに入れて天国(いや地獄かも)に向かえやしないのですから。
無くても少々困るがあったらあったで大いに悩ましいおカネ。
私は手ぶらでお浄土に迎えてくださることになっています。
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