秦野田原の香雲寺 北条家臣団大藤氏墓域

昨日に続き本日も厚労省の悪口。

「年金制度は大丈夫」(「2000万円ないとダメ」に対して)のリップサービスはやっぱり参院選対策の上辺の口上だったのでしょうね。

横浜市長が市長選の直前になって例の公営賭博場の件「IRは白紙です」と言っておいてから最近になってから「やっぱやる」と転換したように言うのと同じでしょう。

ちなみに牧之原市のそれはとっくに撤退が決まっています。

お騒がせでした。

 

年金といえば60歳で定年退職したら60歳で支給されるというのがそのイメージでしたが最近は定年を延長させたり支給開始を65歳にして尚70歳そして75歳・・・などとどんどん遅らせる選択肢を設けていますね。

そして昨日出された年金の件(財政検証)、経済成長率が最も高い推測して考えても将来の給付水準は今より16%下落し、成長率が横ばいだと3割弱も低下するとのこと。

現在の60歳まで働いて65歳で年金をもらう額の年金を今の20歳の人がもらうには68歳まで働かなくてはならないといいます。

結局お国の「長寿社会」への対応は無策だったということなのでしょうね。

 

いつもながら私の考える事は国から「死に待ち」されているということ。「年金支払ったらさっさと退場してほしい」というのが年金を支払う側の本音でしょう。

 

それを「死亡期待値」と勝手に名付けますが、どのくらいの年齢で死亡し、あるいはどのくらいの人たちが亡くなっていけばお国としては御の字なのか一度その数字というものを見てみたいものです。厚労省はその辺りも試算しているはず。

 

長寿社会と耳に親しいですが、まだまだ一番悔しい60代の死など

珍しくないですからね。やはり一部の健康長寿を勝ち得た人の福祉なのでしょう。生きたもん勝ち・・・。

みなさん無茶(タバコと酒と博打)をやらずにバリバリ長生きしてください。

それらすべて「お国のため」になることばかりですからね。

国にとって不健康こそが徳、長生きは不徳なのです。

国益?それはあなたや私がいい頃合いで死ぬこと。

 

さて、以前「秦野の波多野」の波多野について記しましたが、あの辺りの地名が「田原」。

現在は「東・西田原」の括りになっていますが、私の育ったのは「小田原」でしたのでその地名ときたら①相模には田んぼと原っぱを単純に地名にすることがよくあったのかそれとも②波多野氏は「田原(俵)藤太」・・・藤原秀郷流ですのでご先祖の名を持ってきたかなどと連想したものです。集団移住・植民があれば元居て馴染みのある名を新地につける事はありますからね。

 

まぁ「米」という宝物を産出する田んぼは何よりにも勝る財産で生活の基盤ですからね。

 

その「田原」(西田原)には北条時代に北条配下としてこの辺りを治めた大藤氏の城、田原城がありました。

城の推定地としては香雲寺の背後の丘陵と考えられますが不詳。秀吉の小田原攻めの際は東の防衛ラインとしてあったはずですが、多勢に無勢で一蹴されたことでしょう。

 

大藤信基という人が二代北条氏綱時代にこの地を与えられたのですが、この人は北条家の新参家臣ながら戦略家としても重宝にされた人です。

出身は紀伊根来といわれていますが根来といえば雑賀と並ぶ鉄砲衆で鉄砲伝来に機敏に反応しいち早くその生産と技術者の輩出を手掛けた地ですね。

そういったかつてのコネをフルに使って北条家の兵卒のライン(当時は鉄砲を第一線に)の構築とその統率の要となったのでしょう。

 

たとえば武田家の山本勘助、今川家の雪斎、そして秀吉の黒田勘兵衛のような感じでしょうか。もしかして将来北条氏綱―氏康という最盛期の小田原北条家が描かれる大河ドラマができるとすればこの大藤信基・秀信親子は必出でしょう。

 

こちら香雲寺本堂の背後の山にその大藤信基・秀信親子の墓と言われる石塔があります。

北条軍団最強期の軍師の墓としては掲示板もなく寂しいことです。

 

近くの八幡神社の看板には大藤氏の名があります。

最後の画像が波多野城の看板です。 

 

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コメント: 2
  • #1

    檀家の四男坊 (火曜日, 26 1月 2021 19:29)

    波多野城址は実は無かったんです。波多野氏は中丸遺跡のようですよ。私は今日も香雲寺に行ってまいりました。参道の梅が
    ちらちらと咲き始めていました。目敏い鵯たちが早速、つついておりました。後十日もすれば参道が白くなってるかも知れませんよ。2月半ばには参道は見上げると真っ白ではないかとその頃、またいらっしゃって下さいね!!

  • #2

    今井一光 (火曜日, 26 1月 2021 21:25)

    ありがとうございます。
    中丸遺跡というと「ふるさと公園」のことですよね。
    合点がいくような気がします。
    明日の拙ブログにて実朝の首塚について記そうと思います。

    私は小田原生まれの小田原育ちです。
    また行ってみたいです。