いわき市で起こったかけ崩れは歴史的遺物(久保摩崖仏)も一所に崩壊させてしまったようですね。
以前より摩崖仏に出逢ったときなど崩壊のリスクについてほとんど無視しての製作なのだろうと思ってはいたものの眼前にはまず凛々しくその仏の姿を現出させていますので、案外とその手の消滅は無いものと考えていました。
ところがこの件で摩崖仏のある崖も「崩れる時は崩れる」ということで納得させられました。
そして崩落注意や落石注意の警告板はよく見かけますし私などは「数百年もの維持実績」からして「今崩れるはずはない」と勝手な確信をして崖下に立ち入り、時に崖を登ったりもしていましたが、あのいわき市の崖崩れの図を目の当たりにしてやはり「死ぬときには死ぬものだ」と思ったのでした。
しかしよくもまぁあれだけの崩落でケガ人等被害が無かったものです。
やはり石仏のご加護があったのかも知れない・・・などと考えたくなりますね。
さて、妻木城の本城の自然石を利用した城郭について以前ブログにて記しましたが、その山の麓には城士たちの屋敷があった場所があります。
まぁこちらはいわゆる侍屋敷、「根古屋」スタイルですね(場所はこちら)。
妻木氏は明智光秀と関わりが深かったため、広忠は近江坂本で討死していますがその子の貞徳(貞行)は信長の馬廻だったようで本能寺の際は時の空気を読んでか隠居し嫡男の頼忠(家頼)に家督を譲っています。
その機転が功を奏したか秀吉からは咎を受けず、旧領を安堵されそののちの関ケ原では東軍、かなりうまいこと立ち回ったという感がありました。
しかしながら、頼利―頼次との継承はあったものの頼次に継嗣なく妻木氏は断絶、妻木城は廃城となっています。
この時代、「後継ぎがいない」ということはこれまで築き上げた自分のすべてが失われることになるということですから、妻木家はその辺りの件についての読みが甘かったのかも知れません。
この侍屋敷跡も森の中にかつての城址の面影を十分に残しています。
コメントをお書きください