一昨晩の2.26事件を海軍側からの新資料によって検証する番組について。
当時各立場にあって只今ご存命の方々の生きた証言がありましたが、それにしても皆さんお元気な様子。100歳超えの方々普通に出演。
2.26事件といえば「酷く寒い日」とその西暦「1936」の2月26日を覚えましたが、寒い雪の日でした。
開戦の5年前、今から83年も前の事ですからね。
防寒用品、暖房器具も少なく食べ物も豊富にない困窮苦難の時代を通過している人々の方の元気を見て、別の意味でも驚かされました。
当時反乱軍を包囲した16歳の海軍陸戦隊二等兵の方のインタビューにて発せられた言葉について私は「ほおっ」と思わされたわけですが一応その「ことば」について聞き間違いかも知れなかったため「奥の細道」氏の意見を聞こうと連絡。
彼はこの手の番組は録画していますので「なんて言ってた?」とと問い合わせれば・・・「何度聞きなおしても・・・『陸軍の野郎』だった」と。
面白いですね、上層部はともかくとして第一線で銃口を向けて包囲している兵たちの生の声といったところでしょうか。
漠然と海軍(洗練・・・薩摩)と陸軍(野暮・・・長州)は仲が悪かったとよく聞きますがその言を耳にしてあらためて「なるほど・・・」と思ったところでした。
これまた本日のNスぺ『昭和天皇は何を語ったのか~初公開・秘録「拝謁(はいえつ)記」~』(→予告)も楽しみです。
天皇が国民に真に言いたいことを政治が「添削」して発せさせていたということ。
結局は「天皇を利用」する政治は続いていたのですね。
「人間天皇」となったはずなのにその言を遮るなんて・・・
昭和天皇の思い「深い反省」について国民はもっと早い段階で聞く機会があったのでした。
焼け野原の本土を目の当たりにして多くの思うところがあったということは当然でしょうね。
また戦争突入を旗頭にする軍部の台頭と暴走について天皇は「下克上」という表現をしていました。抗えなかったということでしょう。
よく彼らは天皇と日本の名を掲げて、自分たちの意見に反する者に対して国賊と反日のレッテル貼りをしていましたが、天皇の意見を封じてやりたい放題をした彼らこそそのシールが貼り付けられるべきですね。
昭和天皇の微妙な立場が分かってきましたが東条英機の「見込み違いだった」の件も・・・戦争遂行内閣でしたからね。
マッカーサーはその辺りの環境下にいた天皇について(天皇の名を大義に一部軍機関の暴走について)いち早く理解したのでしょう。
さて、上記画像の扁額が拙寺に持ち込まれました。
先日、檀家さんからボロボロになったお内仏を処分してもっと小振りのものを新調するということで閉扉式に向かいましたが、その時、掛けている古いお軸のお焚き上げを依頼されていました。
その後それらを庫裏にお持ちになられましたが「こちらもいっしょに」とこの扁額を。
こちらはお内仏の脇の長押に掛かっていたものでしたが、思わず「え~っ」と言ってしまいました。「処分ですか・・・」と。
たまたま先客があって接客中であったため、そのまま何も考えずに受け取りましたが、こちらは処分しませんから「気が変わったらどうぞ」と付け加えておきました。
ということで検証すると、こちら高橋泥舟の書でした。
勿論叔父さんにも連絡。最近は落款印解読の方も時間をかければ何とかしてしまう叔父は本当に力強いですね。
三文字については右から「閑有趣」。泥舟らしい言葉です。
そして「庚辰春日 泥舟居士」です。
明治十三年(1880)の春ですね。
高橋泥舟の書といえば相良史料館の入り口に「風月雙清」のどでかい扁額「為天香閣主人雅嘱御手余人書」がかかっていますのでそちらとくらべれると・・・ほとんど泥舟で間違いなさそうです。ちなみに明治十三といえば相良油田の産出がこれから最盛期を迎えようとする頃ですね。
そのブログでは「御手余人」の解釈について記しましたが、この額の文言を見て、泥舟が自己そのものについて(石坂でなく)の表現であることがわかってきました。
その額の言葉こそ「閑有趣」であり「御手余人」と解することができますので。
そのころ周造の住まいをねぐらに相良界隈を「閑」にまかせてふらふらしていたのでしょう。
尚、その件確信を得るのが泥舟の落款印。
史料館のものに同一の印はありませんでしたが、「閑」の右上の印の「懶是真」(らんこれしん)について特にその思いを膨らませました。
「懶是真」(画像③)の「懶」(らん)は「ものぐさ、おこたる、なまける」の意。勿論書した者が高橋泥舟ですからその「懶」はかなりの謙遜謙虚(それとも自虐?)が漂っていますがこの三文字は当時の知識人にはよく知られた言葉だったようで印ではなく書としても好んで記されているようです。
これを自身の書に押す印として使用しているところから泥舟はかなり自分の「閑」の境遇について気に入っていたのでしょうね。
こちらは「呉偉業」という明から清時代の詩人の「 自信 <七言律詩>」にありました。
「自信平生 懶是眞」です。
続いて「底須辛苦踏春塵~」は「なにも人々と交えて(踏春塵)辛苦を味わうことはない~」。
ぼーっとしているのが一番、嫌な事はしないで好きなことをしていれば・・・と続きます。
「〇〇すべき」の他人様の思う枠組み(・・・「エピステーメー」)など糞喰らえですね。
ただしこの人はそのあとに続く「墟落きょらく」と「戎馬じょうば」という文言から戦場戦禍のあとを彷徨ってのやるせなさの雰囲気が漂っていますのでその深い吐露なのかも知れません。
泥舟は幕末維新とやらのドサクサに虚脱感を覚えたのかも知れませんね。
尚、左端の印は「執中庵主」しっちゅうあんしゅ。
その下が「泥舟閑漁」。
この「執中庵主」も面白いところ。
「執中」とは「中を執る」で「ちょうどいいところ」下手すれば「どっちつかず」と揶揄されそうな「中立」的立場を連想しますがそれは下衆なものの見方。
儒教(四書)に「中庸」がありますね。
また
「中庸の徳たるや それ至れるかな 民鮮(すく)なきこと久し」(孔子)は絶賛です。
泥舟の「中を執る」も「懶是眞」も「閑」へ片足を入れたスタンスもキレ者の謙虚溌剌と思えます。
しかしよく考えれば「執中」のスタンス、バランス感覚は難しいですね。
私の如くぼっーとしているばかりのものぐさ坊主にはわからない。
今度またその額を持ち込まれた檀家さんにその旨伝えたいと思います。
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