流行りもののようになってしまった感がありますね。
アメリカのヘイトクライム銃乱射テロにわが国の京都の事件以来のガソリン携行缶テロ予告と脅迫。
銃器が溢れかえっている国と規制されている国の違いはあるもののサイコな個人的思いがその心を支配し挙句暴走の引き金を引いたことは想像できます。
まぁあちらの国の分裂症的とも思える大統領殿の人種差別を助長する発言が少なからずそのトリガーとなっていることは連想できますし「銃規制しません」がモットーの御仁でもありますので、その国の大いなる皮肉の様相については「しょうがないねぇ・・・」の対岸の火事の様。
しかし今この国の「携行缶持って行くぞ~」というのには強烈な恐怖を感じますね。
あの短慮でやはり常軌を逸したとしかいいようのない怒りの精神状態について理解に苦しむところがありますが、その結果を加害当人が予想していたかどうかは知りませんが信じられないような地獄をもたらしました。
あの状況を見て、「これは効果的」と思ったかその脅威を振りかざして自身意見・思想に反する者たちを沈黙させる手段にしようとする輩の出現には心底恐怖しました。
その威圧とそれを掲げようとする風潮は自由な発言、表現を制圧してしまいます。
現状、模倣犯は現れていませんが、いずれまた「異常な怒り」は「期待するその効果」(恐怖と結果の甚大さ)に向かって動くのではないかと戦々恐々しています。
この社会を覆う闇はいつ晴れていくのでしょう。
やるせない無力感ばかりが漂います。
私はトランプはともかくとして「異常」と思える人に対して、同じ土俵の上に立つよう少しでも理解することを試みますが、それは私も同様に、どこかしら「異常性を備えている」からですね。
「混乱」(confusion)を私の墓碑銘(エピタフ)に使用する気はありませんが、比叡山から下りての六角堂の人間親鸞さんもおそらく相当に頭の中は「混乱」の域に入っていたと思っています。
人間ですから整理できないほどに頭の中の回路が混線してしまうことは想像できます。
その混乱の中、宗祖は「気付き」を得たのでしょうね。
各事件に対して一律に発せられる「信じられない」の言は私は「ちょっと違う」ような気がします。
「信じたくない」が正当でしょうか。
何よりも現実に人がやらかした厳然事実ですからね。
また異常事案に「許せない」の語も決まって吐かれますがそれらは「私の許す―許さない」のレベルを超えています。
この闇から少しでも抜け出せるよう政治家は動かなくてはなりませんね。今を気づいて欲しいです。
今のところ、弱者は目先の弱者を目標に怒りを爆発させますが、政治屋さんの無策にいつか気づいた「正常者」が国会にタンクローリーで突っ込むこともあるかも知れませんよ。
政治屋さん諸兄、他人事ではありません。
既に人の「正常」と「異常」の境目はハッキリしない霧中にありますし。
みなさん、「私は正常(・・善人)です」と胸を張って言えるのでしょうかねぇ?
さて、ブログでは高天神城から相当離れている感があります。
最近では5月の新茶の季節に史跡研究会の皆さんと向かいましたが、あの時塩買坂に上がってみました。
昨日は「日中無常偈」について記しましたが、私は最初のうちは「日没無常偈」の方をお気に入りにしていました。
ところが「日没」の法要機会は殆ど無いに等しいのです。
その「日没~」を味わうに最高の場所としてブログに記したことのある塩買坂(またはこちら② ③ ④ )でしたが今川義忠の墓を見て正林寺の脇から農道を上がりました。
場所は「旧塩買坂 義忠討死推定地」として記していましたが(場所はこちら)
、なんと真っ新な案内板が建てられていてちょっぴり感動しました。
旧塩買坂のあちらは滅多に通ることはない場所でまったく気付きようがありませんでしたね。
「気づき」は良縁です。チャンスでもあります。
知り得て知らんぷりは悪意でしょう。
標識の件ブログアップ忘れていました。
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