昨日のドP感のお天気の法事。
本堂開式の場合、私は移動の労力はありませんし、境内に墓地があれば「ほんの数歩」の足運びしかありませんので、大したことはありません。
しかし御参集入堂いただいた皆さんのお顔を拝せば「既に一仕事してきた」の感が溢れていました。
堂内周囲配置した扇風機の風でその時間を過ごしていただいていますが、室温の通り「30度台の風」しか起こせませんので気の毒を感じます。
帰りに「衣を重ねての読経はさぞかし・・・」と私の方に労いの言葉をかけていただきましたが、そこはプロ意識満載で「ニッコリ」。皆さんの方もさぞかし辛かったでしょうからね。
私は「これこそ健康の秘訣、なによりありがたいことです」と意味不明の事を発していました。
私が「辛いです」の顔ができるわけもなく。
まぁ、今の私の課題は暑さよりも左足関節の痛みですね。
御内陣閉鎖空間の酷暑と大音声読経の疲労は確かにありますが、お昼を頂いて昼寝タイムでもとれば全快必至。
それ(昼寝)も健康維持の秘訣です。
そういう時間が取れるというのも恵まれているということでしょうが・・・。
さて、法要では私なりの「絶唱タイム」を入れています。
当初は法事と言えば「阿弥陀経と正信偈」のワンパターンでしたが数年前から盂蘭盆会法要に「日中無常偈」(以前ブログ)を法要冒頭に入れるようになり、最近では法事といえば四十九日法要以外は必ずそれを「詠う」ことにしました。
ワンパターンは当然であり、まったく問題ではありませんが、とにかくそれはただ私の好みだからです。
当流では末寺の法要にそれを入れるという例はあまり聞きませんね。まぁ「正信偈(同朋奉讃)+御文」の形を外さなければ「イイんじゃね・・・」ということで拙寺オリジナルの法要形式としています。
本山はそういったアレンジに「ちゃちゃ」は入れたりしませんね。この事が酷い逸脱とは思いませんし。
もっとも末寺の法要のあれこれについて知り得ないでしょう。
また御開山(親鸞さん)も正信偈の中で「善導独明仏正意」(善導独り仏の正意を明らかに)と言われていますし・・・(そちら無常偈(往生礼讃)は善導さん作です・・・)。
その「日中無常偈」は法要開式が「日中」であるということもあって、暑い日には特にベストマッチな偈文です。
「日中無常偈」
諸衆等聴説 日中無常偈 人生不精進 喩若樹無根
採華置日中 能得幾時鮮 人命亦如是 無常須臾間
勧諸行道衆 勤修乃至真
そして「採華置日中 能得幾時鮮」の件です。
コレは真夏の植栽のケアに関わる人でなくてもわかり得るところです。
昨日も水盤の水位が極端に低くなっているのを見てメダカたちのためにタップリ水を補充しましたが、鉢植えの植木など水やりを2日も忘れれば伐るまでもなくあっという間に命は枯れて消えてしまいますね。
「水分をしっかりとって熱中症にならないように」とも受け取りようによってはそう感じるかも知れませんがその「日中」の語に「炎天下」を想い特にこの時期はマッチしていると勝手にガラ声のそれを披露させていただいております。
聞く方もおそらく必死に耐えていることでしょう・・・
さて、その「日中無常偈」を気持ちよく拝読していてハッと思いついたこと。
読経中に何かを思いついたり考えるのは間違いのもとですから、それは禁物なのですが。
しかしこの一節に昨日ブログで記した「きのさんが・・・」でした。
その前に一つ、昨日は「がつお氏」より新たにくずし字の検索サイトを紹介いただきました(左側ナビゲーションの「がつお氏の寛政譜索引」に追記)。
こちらは奈良文化財研究所と東京大学史料編纂所という二大権威が集積したデータをオープンにし運営しているもので「漢字の変遷変化変態」について検索の一助とするグッズですね。
叔父の場合はデータ数数万字、料金数万円もするソフトを二種類駆使して検証するといいますが、何よりもこのサービスはタダであるということは素晴らしい。
ただし叔父はどれほどの例があってもくずし字の世界は一筋縄では行かないと。
それは昨日も記しましたように「字体の正解」はないということ。オリジナルオーケー、読み手のご自由に任せるというところがあるからですね。
しかし「文字」ですので情報を伝達するということが一義ですから大幅に逸脱することはないでしょう。意味をなさなくなります。
問題は文字には人それぞれクセがあるということ。
明治以降は特に藩校等学問所が消滅して有志の寺子屋・学問所の類が一時的に出て「文字」のそれまで踏襲してきた形式がバラバラになって、無数の変態文字が出てきたこともその文字記号の解読を難しくしているのでしょうね。
叔父は江戸以前の文字の方が読みやすいといいます。
さてその「能得幾時鮮」は文意としては反意を記しているところですがその文中に昨日の「きの」さんを見つけたのです。
いわゆるコジ付けの類ですが。
「機」の「きへん」の「木」を取った「幾」(訓読みで「いく」)については、基本、漢文古文書文字の「へん」は有っても無くても、現在使用されている文字の「へん」でなくとも「殆ど無視していいかも」のレベルであって(訓読みでなく)「音(おん)読み」(つくりの部分で音(おん))が決まる)重視されるべきといいます。
よって「き」について漢字を何をあてるかは記す人の自由な意思。たまたまその「き」に「幾」を持ってきただけですね。
どうでも良かったところでしょう。
「きの」さんの場合です。
「き」といえば連想するのは「機」でなくてはなりませんので、それを個別に何なのかと手繰れば「はたおり」。
「機織り」から「はたらく」がさらに繋がり「機能」に。
能は「よく」。時に「すばらしい」の代名詞たる文字で経典にも「よく」でてきますね(能令速満足)。
親が産まれた娘に命名するにあたり「よくはたらく」・「きの」はやはり「願い」が籠っていたのだと感じたのでした。
ただし墓石のエピタフの場合はその文字は石工が彫るわけで、その職種は時代的に重宝されて従事者は今よりずっと多かったでしょうが出来栄えや技量についてはピンキリでしょう。
値切ったりしたら適当な仕事にもなるかもしれません。
昨日は後世に残すために「厳かに・・・」と記しましたが、一般的な墓石などはそもそも多くの人たちの目に触れるものでもなし、大抵の場合は身内の者たち限定のメッセージですから、突飛な表現はアリでしょうね。よって風化・崩壊もあって墓石エピタフは特に読みにくい。
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