子供の頃に江戸時代の元号で私が真っ先に覚えたのは「天保」でした。
それは相良にきて、手にした小判型通貨、天保通宝を宝物として大事にしていたからです。
しかし大人たちはそのお宝を「無価値」と貶してそれを大切にすることの無意味を知らしめたものです。
それでいて普通の古銭よりはカタチと大きさのアピール度が高いですから子供の収集にとっては外せない存在でした。
無数の枚数が正規・不正規(偽)あわせて鋳造されて流通し寛永通宝なみにごくありふれた通貨でしたが、幕府の当初の貨幣価値目論見としては1文(寛永通宝)の100倍の100文というのが期待値でした。
表面の「天保通宝」の裏面「當百」というところが「百文」を主張しているのでしょうね。尚、その下の花押は金座の後藤家のおしるし。
しかしながら市場の交換率はその「百文」を許さなかったそうで普通に「80文」というのが当たり前になっていったといいます。ということで「足りない」人・モノを「天保通宝」と揶揄したといいます。
要は寛永通宝1枚1匁(3.75g―ただし実際はその60%のものも流通)が100枚の重量とすると最大で375g。
1枚の天保通宝の重さが5.5匁(約20.6g)5.5倍の材料を使用しての新造通過が100倍の価値と設定するのはムシが良すぎたかも。
ちなみに画像のものは手近の棚にあったものですが一体どういった代物なのか私にはわかりません。目方は19gでした。
磨滅と錆による減少もありますが、少々胡散臭さも感じます。
意外にも流通は結構に続いて、明治中期頃まで使用できたといいますから一応は庶民レベルで重宝に通貨として使用されていたのでしょう。
ただし「足りない」のイメージが社会に蔓延して、祖父たちが「廃止されて使用できないかつての<足りない>おカネ」として「無価値」を私に伝えたのでしょうね。
天保通宝の鋳造は貨幣経済推進の肩を押しますがインフレを助長し薩摩・長州藩はじめ各藩に偽造通貨鋳造の機会を与えてしまいました。
80文換算であったとしても地金代だけでボロ儲けですからそこはどちらにおいても考えるところでしょう。
それでいて経済ボロボロになっての改革は頓挫しました。
文政→天保は文政十三年の神田佐久間町火事(文政大火)に文政京都地震によって天保に改元、天保から弘化への改元も江戸城西の丸と本丸の二度の火災があったからですね。
火災ほど恐ろしいものはありません(火用心)。
なお「天保」は結構にいわくつきというか、ほとんどこじつけと勝手な妄想ですが、その語については「ダメ」と主張されたといいます。
その言い分は「天保」の「天」を「一と大」に分解。
そして「保」を「人と只と十」と分けて続けて読めば「一大人只十」になり、それは「臣民従者ただ十人しかいない」と読めるのでけしからんというもの。
火もおそろしいものがありますが、「人」の妄想含めてその性質はまた、ことにおそろしい。
しかしそうとはいえ「人用心」の世にはなって欲しくないですね。
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野村幸一 (日曜日, 21 7月 2019 02:16)
この古銭、わたしも親から貰い今も持っています。他に銭形平次が投げるような古銭も少々。我が家の歴史から言っても昔使っていた残りの一部がずーっと…という感じなのかな?と思っています。
以前、お邪魔した時に通していただいたお部屋にあった歴史を感じる和箪笥も子供のころ全く同じデザインの箪笥が私の家にもあったので、やはり今井家と野村家の繋がりが深いのだなと思いました。ただ、我が家の和箪笥は当時でかなりボロボロでした。
今井一光 (日曜日, 21 7月 2019 12:47)
ありがとうございます。
先日も一棹廃棄しましたが、気分のいいものではありませんね。
ご先祖の気持ちのこもったいろいろが「出入り」していたものですから。
人はモノというとどうしても金銭的なことを思い浮かべますが、
「人の思い」こそがお宝なのですね。
しかしモノだけ見ても私のお頭の程度ではわからない。寂しいことです。
野村家が五家の中でも筆頭だったことは家康の鷹狩陣場の屋敷に近かったことからも
推測できますね。