先日来の九州南部の集中豪雨は地元の皆さんにとって大変なことでしたが、いろいろと勉強させていただきました。
「誰が避難所など行くか」という声があったほか、人口と同じ数の避難指示が出て「どこに避難すればいいの」とかそもそも避難所に行ってももはやスペースがなく「どこも入れなかった」、避難所の立地と比較して「我が家の方がぜんぜんマシ」・・・そしてその現実を見た行政はいつものお決まり文句「課題が残る避難指示だった」と締めていました。
その課題は何も鹿児島の自治体に限るものではなく日本全国同じでしょう。そして「次」があったとしてもまったく同様の事々が繰り返されて「課題が残った」と終わるのでしょうね。
皆さん滅多なことでは「次はナイ」と踏んでいることも確か。
自分は大丈夫(-災害に被災しない-)ということですね。
昨朝も当地では朝5時半に避難訓練なのかミスなのか相良じゅうにサイレンが響いていましたが「訓練」という言葉が入っていたため完全無視。
またかつてこの地で幾度か避難指示のようなものを経験していますが、私は一度たりともその指定場所などに出向いたことがありません。
檀家さんでその手の独居老人の避難に声を掛けている方々がいますが、最近は避難者は少なくなっていると聞いたことがあります。
それは暴風雨や萩間川の水量が増した際に発令されますが、外に出る方が危険であるということもありますが、避難したら避難したで相当の苦痛が伴うからですね。
体育館や公民館の床で「プライバシー無しの雑魚寝」となるからです。
しかしコレ、私たち日本人には慣れさせられている光景で半ば致し方ないものと刷り込まれていますが、「世界標準」というものから比べると強烈な人権侵害の如く評価されているよう。
一部表現を借りると「ソマリアの難民キャンプ以下」といいますね。
この日本という国は真の意味で世界と肩を並べるに至っていないということがわかります。
またも「間抜け」の政治の一端を見せつけられた思いです。
カネを落とす場所が間違っています。
参考指針
「スフィアハンドブック 2018」 日本語版7 避難所および避難先の居住地(本文のみ)
さて、下岸本城という元々の土豪領主の城の伝承があります。
昨日ブログの本正寺からスグ(場所はこちら)。
先日は南北諸士帳から岸本関連を引っ張ってきましたが佐々木系諸士が出入りしていたのでしょうが、現場は一見したところはただの竹藪。城址といっても小さな屋敷といった感。
防御性に関しては専ら周囲の泥田の中を思わせます。
古墳時代の小さな円墳かとも思わせる形状ですが、「竹藪」だからといって捨て置いてはイケないというのが一応は鉄則。
どちらかでも記していますが「竹藪」ということは当然に長期に渡って人の手が入っていない場所ですが特に周囲に開墾地があってその手のエリアが今も残るということは「不自然」と考えるべきなのです。
開墾によって土砂の利用他田畑として利することができるのですが、何故に手が付けられないかといえば地元の言い伝え「そこはさわるな」なのですね。
いわゆる禁忌の地の示唆です。
ただの館の跡程度の伝承でしたら禁忌にはなりません。
私はこの竹藪が一時墓地化していた時期があったと決めつけて
当然ながらズカズカと申し訳なくもその竹藪を歩きました。
まぁ特にピンとくるものはありませんでしたが・・・。
外構空堀らしき段差を推すところもありますが、なんとも確定的なことは言えません。
ただし、この「円墳」の北側に小さな祠①が見えます。
(②が祠から見た西 愛知川段丘の縁 ③が東側鈴鹿山系)
そちらが祇園神社、地名としては「東近江市小田苅町」となりますが室町期以前の創建は優にありそうな宝篋印塔があります。
この石塔たちを見てこの地の在地領主、荘官、地頭の存在を思いつつその流れから出た土豪がそちらの館にいたのかとも推測したりしました。
塔身に金剛界四仏が肉彫りされていますが、大きい方と小さい方それぞれ四仏の方向が違いますね。
長い間にあっちこっち移動、載せ替えがあったのでしょう。
まぁよーく見ると塔身の色質が違っていたりして・・・するとパーツ取りか・・・?
四つの隅飾り8カ所に阿弥陀の梵字キリーク種子、あるいは「ア」か・・・が推測できます。
相輪の欠損は惜しいですね。
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