南北諸士帳の井口上岸本を考える 岸本城記述と墓碑

梅雨だから仕方ないとは思うもののいい加減カンベンしていただきたいものです。

この(気圧の)谷の底を這うような不健康極まりない状況からの脱出はいつになるのでしょう。予報ではこれからずっと晴れマークがありませんでした。

 

私の天候不順、気圧低下からの絶不調は決して「気のせい」とは言い切れないものがあって、実は左足関節痛から始まって上腕から肩の痺れからくる倦怠感に耐えきれず、その原因を探るべく近くの医院にて血液検査の依頼までしていました。

9月には例年行っている人間ドックを予定していますが、それを待つほどの悠長さはあり得ない程の躰でしたから。

結果はいつもと同様「修業が足りない」の診断結果。

 

坊さんがそれを言われればムッとするところかも知れませんが

私の生活にも宗派にもその行はありませんし(敢えて言えば称名)何より「何でもなかった」ということで一応の安堵とニッコリ・・・。

原因は「季節がら」と「年齢」ということで収まりました。

晴れ間が出て動き回れれば解消するでしょう。

晴れた日に畿内の墓場でもほっつき歩くことが出来ればなお全快しそうです。

まぁ週末は雨が続き気温も低下するそうですから辛抱しましょう。

 

 

さて、愛知川右岸の真っ平に広がる段丘を鯰江から愛荘町琵琶湖方面に愛知川と同じように進むと岸本という地名があります。

そちらに「岸本城」とその死者とかつての墓石の存在をそっと示唆する墓碑が建っています。

交差点掲示は特にありませんがその手前の交差点には「上岸本東」とあります(場所はこちら)。以前記した極楽橋よりは手前になります。

 

建碑の裏面をのぞき込めば「大規模な開墾」があって昔からの色々を壊したという反省文らしきものが。

きっとたくさんの墓碑石塔の類のものが出てきたのでしょうね。

「往古以来の無名の古墳群消滅す此無縁墓は岸本城主以下将軍連の葬られた~」とありました。

 

岸本城に関しては「城郭大系」への掲載はありませんが南北諸士帳の愛知郡には

目加田城に「佐々木随兵小倉源氏 岸本佐馬亮」そして「井口」地名の羅列の中

「井口上岸本 佐々木随兵小倉源氏 岸本六郎」の名が見えますね。

 

また在地土豪の城館を思う岸本城と鯰江城包囲のための付城として信長が築かせた岸本城があるといいますが、それを区別するために下岸本・上岸本(信長)の名を聞きます。

ただし後者の場合、地元の屋敷等をのっとったり、元ある城塞を防御性を上げるなど改修しているのでしょうから、信長が築いたというよりも付城として信長が活用したと解釈すればよろしいかと。

 

この「井口」の字名について詳細当たっていませんがこれは「井戸の井」だけに往々にして小さなエリアを想定しがちです。しかしこの「井」は時に「河川」をも表す事がありますのでそうなると愛知川右岸に沿う地域をそのように呼んでいたと推測することもできます。

「居」を「井」と充てる事もありますからそうなると「水」から離れますので何事も決めつけることはイケませんが。

まぁ単純に「愛知川からの水の手取り口の河岸段丘の元」とこじつければその地名は合点できるところです。

 

どちらにしろこの石碑の「岸本城」の件各特定は難しそう。