鯰江城址周辺には石仏たちが散在していました(昨日)。
当時の戦没者墓標というものは遺族が現地に据えるといった傾向、きっと「追善供養」のならいのようなものがあったのでしょう。
そしてまた鯰江城の終末である信長包囲網での戦没者の数はハッキリ分かりませんが、やはり死者の数は夥しいものがあったでしょう(なぜなら相手が信長だから)、そうなると半世紀程度は「荒涼とした墓場」といった時期があったと考えられなくともありません。
江戸時代に入ったあたり「かつて戦乱の地」というものが忘れられた頃に開拓と整理の手が入り、時代の変遷とともに家々が立ち並んでいったのでしょうね。
「鯰江さん」が今も残る理由はその開発者としての籏頭となった者たちにこの地の名を名のった人々が居たということですね。
墓碑散在の理由としては六信眷属ともあればこの地で亡くなった縁者につき小さな墓標の一つも建てたいという気持ちになるのは当然でしょうし・・・。
ということで、まぁその件どちらの戦跡でも同様ですが、彼の地を発掘すればまだまだ石塔の類は出てくると踏んでます。
さて、以前「イモト」読みについて「井本」か「妹」かとつまらないことを書き散らかしましたがその「妹」の集落がこの鯰江から名神高速を跨いで同じ距離程度を行ったあたりにあります。
左側に織田方の付城井本城址といわれる春日神社がありますが、その先が「妹南」の交差点。左が段丘上で左折すれば「妹」の中心部に。
そしてその交差点を愛知川方向に右折して少々行けば、光明寺というお寺があります。
昨日の「専修」にひきつづきこの「光明」もまた阿弥陀如来の代名詞の如くの名で、親しみが湧いてきますが、宗旨は天台宗となります。
勿論、御本尊は阿弥陀如来ですね。
光明寺のある地名は「妹」ですがお寺の山号が「鯰江山」。
山号は大抵が音読みとなりますので「ねんこうざん」です。
近江でも特筆的な地名「鯰江」と「妹」が両方一緒に寺号として名のられる寺でもあります(場所はこちら)。
そちらのお寺にはこの辺りでは美形で長身(183㎝)、各パーツ完存の宝篋印塔があります。
時代は鎌倉時代後期のものでスタイルも完璧。
コレだけのものの建立はある程度の地位のある者の手配であることは間違いないところでしょうね。地頭クラスでしょうか。
それにしても戦乱で荒れた当地にここまで美しい姿を維持しつつ今も残っているということに感動を覚えます。
何らかの文化財指定にならないところは疑問でもありますね。
川勝政太郎氏の詳細評価を転記すると
「相輪は完存。基礎は四方とも輪郭を巻き、格狭間内に開蓮を浮彫。上端は二段、塔身は四方に月輪内の金剛界四仏種子を薬研堀する。笠上は六段、下は二段。隅飾は三弧輪郭付きで内部には八面とも梵字『ア』を刻む。
「塔身のキリーク(四仏の阿弥陀)の右と左に正安弐季(1300)庚子十一月廿四日 奉造立之 為悲母・・・」
一見、また参拝の価値があります。
私が今一つ「ふむふむ」と頭の片隅に残った件を記せば、本堂大棟下にゴールドに輝く寺紋が四ツ目であってこちらのお寺の住職の姓が佐々木さん。
佐々木姓数ある中、「それは偶然」とのご指摘がありそうですが、そこは思わずニヤリとするところでしょうね。
もっとも寺歴としては江戸初期で宝篋印塔建碑の時期と離れますし他の石塔の積みはかなりテキトーのように見えますから、この付近のどちらかにあった石塔を移動してきたことも十分にありえます。
江戸初期に寺の再建があったということとすれば上述の「戦乱後の再開発」とタイミングが合います。
寺はまず火をかけられるというのが戦闘のならいのようなものですからね。
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