台風一過の遠州はスカッ晴れ。
そしてその台風とやら、おかげさまでまったく拍子抜け。
昨夜は普通の雨といった感じでした。
まぁ梅雨前線がこれから停滞しますので、一時の爽快を楽しませていただき感謝しております。
先日「30年以内に大地震『危ない活断層トップ30』」なる記事がありました。
地震には日頃から警戒して散々ヤラれもしている私たち遠州人ですが大いに興味をひきます。
そのような見出しに飛びつかないワケがありませんが、その「ベスト30」にリストアップされた活断層たちを見て、「・・・?」となりましたね。
地震に関してはもはや自虐的、悲観論に満ち満ちている私どもではありますが、何とその30ベストの中に私の住まう近隣地域の活断層はピックアップされていませんでした。
「うれしい」といったら「ベスト」を指摘された地域にお住まいの方に申し訳ありませんが、一瞬間気持ちがすーっとラクになったことは事実です。
その研究が正当で本当にそのようになるのかは不明です。
てっきり真っ先に「静岡県かなりヤバい」と指摘されると思っていましたので。
しかしよく読めば「日本海東縁ひずみ集中帯をはじめ、地震の発生源として最も警戒されている南海トラフなど、これらの大規模な地震源に加えて」とありました。
とんだ早とちりで頭を掻く始末ですが、日本中どこでも地震が来ても不思議はないということでしょうね。
地震といえば鯰。
以前ブログにてその「鯰」という地名と城址(鯰江城)を記しました。珍しい地名、鯰江は鎌倉期の興福寺荘園の地名として登場してくるというほどの由緒。特に佐々木氏の最後の城として名が残ります。
その後、尻切れというか当ブログ支離滅裂の例にもれず、放ったらかしになっていましたところ昨日なぜか近江八幡辺りを突然記したことから思い出しての追記になります。
鯰江城(場所はこちら)を記した際には「愛知川右岸の段丘上にあって今はまったく面影はなし」と記したのは住宅地と化していたからですがその「まったく」には語弊がありますね。
土塁あるいは多少の石積みの類で遺構を十分に推測できる箇所はありました。
ただし違和感が残るのは「攻衆人数佐久間右衛門尉、蒲生右兵衛大輔、丹羽五郎左衛門尉、柴田修理亮仰付けられ、
現地を訪れて、比高もそれほどでもない段丘(7m)にある城の攻略に信長がそれほど悠長と思えるような姿勢だったのは何故だろうかというところ。圧倒的勢力をジワリと見せつけて相手の戦意を喪失させる戦略(そのうえ退路を提供)があったのでしょうか。
まずは攻め手としては台地背後からの攻略が一番と思われますが、当時は愛知川河岸側以外、東西北の三方には堀が廻らされていたのでしょうね。
ただし城の構としては規模(半町)も大きくなく、兵糧としても長期戦は一見してムリのような・・・。
私でしたらこちらに籠城する気にはなれないようなロケーションです。
堀は掻きあげで土塁を設けるのがスジですが、後世の再開発となれば、その逆、土塁を壊して堀を埋めて整地し、その上に家々が建てられていったのでしょうね。
あの家々の下には多くの遺構が残っているのでしょう。
不思議なのはあの集落で人とすれ違わないところ。
いつ行ってもそう。
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