夜間のドシャ降りのあとは相良の地は好天に恵まれました。
昼間の雑用タイムが終わって、夕刻からの散歩は小堤山から「いーら」へ抜けて大沢の高橋を潜って戻るコースを選択しました。
そこでついに今年初めてホトトギスの声を聞きました。
先日来テレビからやたらと「愛川町」の事件での取材がありましたがその地の音声のバックにその声が聞こえて「相良は飛び越えて行っちゃった」などと奥方と話していました。
昨日も「聞こえない」不思議について話していましたので、その初音には少しばかり感動を覚えました。
よって鬼女に上がる道あたりでうすら明かりとなった時間に「ベストポイントは・・・」などとうろうろしている二人組がありました。それにしても遅かったですね。
さて、九品仏浄真寺のお浚いを昨日ブログにて記しましたが、そのお寺の地は元はと言えば城跡。奥沢城址です。
世田谷区奥沢といえば都内でも閑静な住宅地。
そのような資産価値として目がくらみそうな広大な場所に浄真寺があるわけですがやはり寺としてあったことが開発から逃れることができたということに他なりません。
よってここに城址と緑が残ったという奇跡を感じます。
天正十八年(1590)以降、廃城荒れ果てた湿地の中に浮かぶ丘(比高5~6m)を名主の七左衛門が寛文五年(1665)に寺地と請け延宝六年(1678)珂碩上人が九品九会の霊場として浄真寺を開設しました。
東側に土塁が見えないのは山門を作るために崩されたというのがその理由のようです。
奥沢城は通説では世田谷城の出城として吉良頼康によって築かれたといいます。
江戸名所図会には
「小田原北条家の属将吉良家の老臣大平左馬(或いは出羽守とも)
といひし人の構へたし類隍の旧跡」「今も北より西南の方へ繞りて、堤の形空堀の跡を存す。後門の方は大沼にてありしとなり。今は耕田となれり」(日本城郭大系)とあります。
ということは・・・寺の周囲にある住宅地は、かなり地盤が悪そう。堀を埋め立てたこと、かつての田圃と湿地帯に沼・・・まぁ私の住まう場所も同じようなモノか・・・お寺の境内が台地の上ということですから、避難場所は近いですね。
世田谷区の花が「サギソウ」となるその元となった伝承について境内に掲げられていましたが、以下の如く。
「世田谷城主吉良頼康には奥沢城主 大平出羽守の娘で常盤という美しい側室がいました。
常盤姫は頼康の愛情を一身に集めましたが、それに嫉妬した側妾たちは、つくり話を頼康につげ口しました。
その度重なるつげ口から頼康は常盤姫に冷たくあたるようになりま した。
愛情を疑われ、悲しみにくれた姫は死を決意し、幼い頃からかわいがってい た白さぎの足に遺書を結びつけ自分の育った奥沢城へ向けて放しました。
白さぎは奥沢城の近くで狩をしていた頼康の目にとまり、矢で射落とされてしまいました。白さぎの足に結んであった遺書を見て初めて常盤姫の無実を知りいそいで世田谷城に帰りましたがすでに姫は息をひきとっていました。
その時、白さぎの血のあとから一本の草が生え、さぎに似た白いかれんな花を咲かせました。」
最後の画像3つは阿弥陀堂の裏の「阿育塔」。
阿育塔といえば石塔寺のそれを思い出しますがこちらは天保期のものです。
その背後にも土塁が広がります。その向こうは住宅地。
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小山昭治 (水曜日, 26 6月 2019 08:50)
ホトトギス、2週間ほど前は園原の坂道の方で聞こえ、
その次は鬼女新田の登り口、そしてい~らの裏、須々木のお宮の裏山。
次第に下りてくるのがわかりました。
園原の方、遙か遠くにアオバトの声(アオー、アオー)を聞くと山が懐かしいです。
今年は天候が安定していないのでまだ行けてないです。
今井一光 (水曜日, 26 6月 2019 09:16)
ありがとうございます。
私どもがホトトギスの声を聞くのが遅かっただけで、多少の遅れはあったもののいつものように来ていたのですね。
あの声は癒されるどころかありがたさを感じます。