貧乏は辛いです。
「はたらけど はたらけど~」( はたらけど はたらけど 猶わが生活(くらし)楽にならざり ぢつと手を見る )は「一握の砂」からですが、時代は明治です。
ただし石川啄木が24歳の感性ではあるものの彼は26歳で人生を閉じていますしその若さもそうですが語彙はストレートで今の私たちには相当のインパクトがありました。
現在に至っては仕事を選ばず「はたらく」という意思さえあれば憲法25条に記された「最低限」はラクにクリアできるはず。
問題は障害者への社会の対応です。
障害者雇用に関しては2018年に法定雇用率(全従業員-44人程度の事業所の2.2%)の算定基礎に精神障害者を加えるなどの法改正があるなど少しずつは改善されていますがこれだけ貧困問題が大きくクローズアップされてきた中「まだまだ」の感ありますね。
きっと経団連のお偉いさんが「これ以上はカンベンしてくれ」と言い出すのでしょうがそもそも障害者の認定制度、特に知的障害者への救済が薄く感じます。
手っ取り早くその「障害」の範疇を吟味しなおすべきと思う所ですが、失礼なことは知りながら記せば、昨日ブログの「歯医者に行けないので自分で歯を抜く」という行為に及ぶ人はまずその障害を疑います。
他にも給料をすべてバクチにつぎ込むなどの先を考えずの破天荒に見える行動もそう。
そもそも「月に2万円~4万円の収入」というところでこの社会の機能不全を思いますが私の知りうるところでは、その手の「荒んだ生活」を送っている方でやはり障害を抱えている場合がありますが、特に一見健常に見えても知的障害を疑われるグレーゾーンがあると思います。
健常者と障害者の区別は国の承認あってこそでしょうが、そういうグレーな人たち、少なからず精神に傷を負っている方たちに向って手を差し伸ばせないのでは相互扶助の社会とは言えないですね。
自分自身どこかしら「オカシイのではないか」と思い続け人生を送ってきた私がそう思いました。
さて「五劫思惟」(ごこうしゆい)といえば当流第一の「正信偈」の早いページ、3ページ目の冒頭の「五劫思惟之摂受」があってまずはその「五劫」の語はチャキチャキの門徒衆でなくともご存知であろうと思うところ。
また最近はなぜか聞かなくなりましたが落語の「寿限無」の中に出て来る「五劫の擦り切れ~」でもお馴染みです。
子供の頃その「寿限無~~」をスラスラと暗唱する子に「なんだコイツ・・・」などと白い目で見た覚えがあります。ホントに悪い子でした。
詳細は各お調べいただければと思いますが、その「五劫思惟」とは「阿弥陀さんがまだ法蔵菩薩の時(法蔵菩薩因位時)に相当期間考えてくれた」の表現で元はと言えば「大無量寿経」から。
その経典は私ども浄土真宗以外でも阿弥陀如来を信奉する浄土系の宗旨にあっては根本聖典とされています。
ただ当流にあってはその経典を中心にあと二つ(観無量寿経と阿弥陀経)、いわゆる「浄土三部経」のみを「経典」として他の経文は「拝読しない」というところがポイント。
尚前述「正信偈」は真宗勤行の中心ではありますがいわゆる「経」ではなく「偈」というくくりになります。
拙寺はじめ当流のご本尊のカタチは立ち姿の阿弥陀如来というのが定番ですが、九品仏(浄瑠璃寺・浄真寺)座像はじめ色々な阿弥陀さんの化身があります。画像は勿論木仏、石仏それぞれの時代、作者によって様々です。
そのカタチの中で全体数の中では希少ですが、「五劫思惟阿弥陀如来」があります。
京都の金戒光明寺(場所はこちら 京都岡崎の北の山になります)の石仏①~③と九品仏浄真寺本堂の木仏④です。
私も若い頃は考えるところあって長髪ボサ伸ばしで父母友人ドン引きの時代がありましたが、阿弥陀さんの髪型を見て「五劫なのにそれだけ?」。
作者は大真面目なのでしょうが、滑稽な容姿で何も知らない方が一見すれば「ナニコレ・・・」の意味不明でしょうね。
最後の画像は奈良東大寺末、その名も「五劫院」より。
重源が宋から呼んだという伝承がある「五劫思惟阿弥陀仏坐像」(重文指定)です。
2019年8月1日 ~ 2019年8月11日に特別公開されるようです。
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