昨日は母と息子の二人住まい、50才になる息子は仕事が長続きせずここ20年間は就労無し・・・といったお母さんのお話しを聞きました。勿論檀家さんです。
息子はスマホもパソコンも持たずただひたすら家に居てテレビを見て過ごしているそう。
尚、新聞は読み、喫煙と少々の酒は嗜むとのこと。
何より無収入について気にかかりますがそれについては母親がパートタイムを3件かけもって家を「支えている」といいます。
その他の収入と言えば亡きご主人の遺族年金と当人の僅かな年金、それでおしまい。
以上の状況を聞かされて、たくさんの思いが溢れました。
世にいう「8050問題」そのままであって、今この段階で「仕事をしなさい」の説教はありえないところです。
会社など組織に入って仕事が続かないのはコミュニケーション不良の典型ですが、そういう人に向かっての正論の強要は喧嘩を売っているのも同様ですからね。
それ(就労)を言うとやはり当人はかなり荒れるそう。
母親の悩みは尽きませんが、タバコ銭と酒代を渡すのは甘やかせすぎであると周囲に叱られるといいますが、親子間で友好関係を維持するうえでそのことは最低限の妥協なのでしょう。
母親に聞けば若い頃に「アスペルガー症候群の可能性」とまでは.診断を受けたそうですがそれ以後当人が拒絶するために医師による正式診断はされていないと。
私の論は次の通り。
その手の件、どこにでもあって悩みは当家に限ったことではない。ただしお母さんが健康のうちはバリバリ仕事をこなして「大黒柱」となっていられるがいかんせん時間がない。
いずれは仕事に就けなくなってゆくゆくは寿命を全うしお浄土に向かわなくてはならないことは必至。いつ途中に大病を患うかもしれない。
そうなると息子は独りで暮らすことになるが収入が無ければ暮らせない。そこのところを(笑いながらでいいので)理解してもらってほしい。仕事については触れなくていいし言わない方がいいかもしれない。なぜなら日本は福祉社会である。
なんとか病院に出向いてもらい正式な診断を受け、障害者年金の給付を検討するように・・・少しでも生活の足しになる・・・
20年間も「自宅待機」し就労ができないという対人不協調の症状の事実は十分に「病」ですからね。
問題は当人を病院に連れ出せるかどうか・・・
行政への相談はただ「聞くだけ」で発展はないとのこと。
なんとかその先を進める方策について行政にも踏み込んでいただきたいと思います。
母親の心配は将来の不安もそうではありますが、今何か動いて彼を怒らせてしまうこと。自暴自棄になって人を襲ったりしないか・・・だそうです。
最近の事案が心配に拍車をかけているようで切実です。
さて、前回のNHK「歴史秘話~」が三好長慶だったことからついでと一昨日から「三好長慶は信長より凄い」とばかりに記しましたがその番組の進行の通り、本日も三好長慶像を。
以前行った高槻の「しろあと歴史館」にブラ下がっていたもので、原本は大徳寺聚光院蔵、重文指定になっています。絵画としても評価が高い軸です。
長慶は永禄七年(1564)に亡くなりますがその死亡に関しては秘密にされました。
武田信玄の死についてもその秘匿に関してよく言われますがそれより早い時期です。
そしてまた周囲に影響力があったという証拠でもありますね。信玄は甲斐・信濃の大名でしたが三好長慶は何といっても畿内を掌握していました。
その死は家督を譲ると決めた三好義継が若すぎたことから2年間秘密にされたといいます。
よって葬儀と三回忌が同時だったのでしょうが、この有名な三好長慶像はその時(永禄九年)に描かれたもの。賛は聚光院の笑嶺宗訴(しょうれいそうきん のちに南宗寺2世)によるものです。
その人が長慶の葬儀の導師を行っていますが、のちの秀吉が主催した信長の葬儀もやはり導師として招聘されています。
これは「天下」に関わる者の葬儀には「この人」との連想が秀吉にあったのでしょうね。
ここで何が「凄い」かといえば彼の直垂の紋にご注目。
いわゆる「桐の紋所が目に入らぬか・・・」ですね。
桐紋は現代にいたってはさして珍しくもない家紋、というかいたってポピュラーな紋ですが、元はと言えば皇室専用で菊紋と同様、その使用は限定されていました。
それが天皇家より足利家に使用が許されて以来足利幕府の紋として使用されます。
よって三好長慶の桐紋は足利義輝から下賜許された~永禄四年(1562)~ものでした。
信長も時としてその紋のある装束を着けていますが彼の場合は足利義昭からのもの、時代としても長慶の方が勝ち。
秀吉は関白として皇室から使用の許しを受けてからお気に入りの家臣にバラ撒きました。
当時、将軍家からその紋を頂戴するということは一大ステータス。誰もが一目を置いたことでしょう。
三好長慶の凄いの②は前述テレビ放送でも触れていましたが長慶の行政手腕について。
村と村の些末ともいうべき水争いについて、裁定しているというもので、為政者としての行政への対応力の細かさが伝わってきます。
きっと今でいう「大岡裁き」の如くだったのでしょうね。
新規領土の取り合いの戦に明け暮れて領主としての本分を忘れる支配者ではなかったという一面がうかがえます。
三好長慶水論裁許状(高槻市)
今度当所と真上
申結井出床事
双方以指図 雖及訴
論 互無証跡 真上
支申者 従往古井出
▰無之旨申 為究淵
底差遺検使等 令見之
処 年々井出跡顕 然之
上者 任当所理運之旨
如絵図構井出 可専用
水便者也 仍状如件
永禄弐
五月十九日 長慶 <花押>
郡家惣中
芥川からの用水をめぐり郡家(ぐんげ)村と真上村と間で起こった水争いに対して三好慶長が直接裁定した書面です。
三好長慶が検士を派遣し実地検分させたところ郡家村が主張する井堰(取水用の堰)を発見するに至り、郡家村の主張を認める裁定をしたという内容。~高槻「しろあと歴史館」より。
長慶の独特な花押が躍っています。
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