意外でしたが日本海側の新潟から北海道(ユーラシアと太平洋、二つのプレートの境目)まで、地震の頻発地だったことがわかりました。報道によってこれまでのそのエリアの大地震の歴史が表に出てきました。
私ども遠州灘や駿河湾というフィリピン海プレートを控える地に住まう者として津波の襲来と人的物的被害想定はまったく他人事ではありませんが、日本海側の場合、プレートが動くと(地震が発生すると)
①海が浅い②海洋のエリアが狭いために津波のスケールは太平洋岸とは違ってパワーアップするといいます。
秋田の海に面した平地に設置したいとする例の大金を払って導入するミサイル迎撃システムの津波対策の件、「問題ない」などと言っていましたが、大問題であることが浮き彫りになりましたね。原発も地震が来るたびにそちらに気を配らなくてはなりませんので、本当に厄介者です。
一番気になったのは津波警報の件。
地震と同時に停電したということでその警報を出すことが出来ず、避難発令について「知らなかった」という人が多数出たこと。停電想定のリスク管理って・・・なかった・・・ちょっとお寒いような・・・。
さて、こと大河ドラマファンかもしれないと思う私ですが今回のそれに関しては1度たりともチャンネルをあわせていません。
大嫌いな「幕末」であってたとしてもチャンネルをそのままに流し見することはよくあることなのにです。
最近では全くチャンネルを合わせない大河ドラマというのは今回が初めてのような気がします。
どうNHKが頑張ってもオリンピックの歴史みたいなものにまったく興味なしでそれにお付き合いすることなど無駄にしか感じませんからね。
その分法事と重なる日曜午前に視聴できない日曜美術館再放送、
Eテレでお世話になっています。
来年のテレビ小僧の楽しみは勿論大河ドラマにていよいよ明智光秀が登場するということに尽きますね。
これまでずっと色々な場所で「明智を大河に」の声を聞き時に応援の署名などにもお付き合いしたことがあって「ついに!!」と成就した感がある明智大河でした。
となれば気分は明智の次。
戦国時代ならばそこそこの視聴率が取れるということを思い知ったであろう大河ドラマ製作担当側からすれば、続けざまに戦国を持ってきても不思議はありませんね。
まぁ大外しして視聴率が低迷したとしても製作費は豊富に抱える局ですから「チャレンジ」ということで済まされるのでしょうが。
では次の戦国の大河ドラマは・・・というとやはりかねてから今川や北条がはやされていますが、少々食傷気味ではあります。
双方、私個人的には親しみあって関係のあった地の武将でどういういった作りになるかというのも興味あるところですが・・・
しかし今、戦国時代の意外性というか案外イケるのではと思うのが三好長慶です。何より新鮮味があります。
畿内や徳島では「三好を大河に」という声もいよいよ上がってきているところ、昨日のNHK「歴史秘話~」がその三好長慶でした。
番組タイトルでは「幻の天下人」とありましたが当時の感覚としては三好長慶の「天下」は共通認識にあったというのが現代の長慶の再評価華やかなところ。専門書店に行けば彼を扱う研究書物はかなりの種類が揃うほど、この世界では知らぬ人のいないスターです。
何故に「再評価」とされるかといえば明治期に明治天皇の信長評価の動きもあってか「信長こそ」の歴史解釈が旺盛となり三好長慶が日に当たりにくくなったからですね。
その「長慶英雄に非ず論」がクローズアップされてそれが人口に膾炙されていたこともありますが、その根拠が頼山陽の日本外史です。
「老いて病み恍惚として人を知らず」とあるよう。
今はそれは無根拠の出鱈目というのが通説ではありますが、そもそも四十二歳病没について、まぁ当時の年齢としては「若くはない」ところでしょうが、「老いて恍惚」、要は痴呆老人みたいな表現であっていくら何でも決めつけの違和感があります。
40代で「恍惚の人」など・・・
彼の不運は嫡男義興の早折(21歳)をきっかけとした心身の憔悴、当たり前ですが本意ではない後継者の選択作業、そしてそれが家中の分裂へと繋がり病没、その結果「家」のコントロールを失って存続ができなかったことが正当な三好長慶評価が伝わらなかった原因でしょう。
彼のとった仕事の数々の好評を伝えられず、後世の軍記読み物の演出で塗り固められていったのかも知れません。
画像は南宗寺の三好長慶の銅像(場所はこちら)。
尚、「天下」の概念は「日本全国」のことでなく「畿内」の感覚が強かった時代です。番組でも触れていました。
実際、御所のある都とその周辺以外の国の支配などはどうでもイイわけで、とにかく政治中枢の天皇の「次の位置」に居て天皇に大金を貢いで儀式を差配する武将こそが「天下の人」だったのでした。
室町幕府は既にその力を失っていましたからね。
信長は堺の有益性(絶大な儲け)に目をつけそれを手に入れる事に注力しましたが、その場所の優れた立地性については三好長慶はとっくに理解していました。
彼が堺に南宗寺を菩提寺とした建てた理由はそこにもありますね。
彼が大河ドラマに採用されるとなれば、時代的には信長・秀吉らが畿内に進出してくる四半世紀ほど前になります。
長慶の全盛が永禄年間に入ってからになりますが、織田信長はその三年(1560)が実質、桶狭間でのデビューですからね。
信長も京都の長慶に一目を置いていたことは間違いないでしょうし彼の「天下」を意識しその背中を追った地方大名の一人でした。
管領家細川や畠山氏、そのころの畿内の有力国衆、本願寺勢力とのかけひき、そして若き頃の松永弾正久秀登場のシーンなど楽しみは尽きませんね。
そのドラマ化は意外性あるものの中心から離れすぎず、悪くない選択です。
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