使い捨ての品物を作っては売りまくってガッツリ儲けることはともかくとして、環境に負荷をかけるそれについて問題が提起されるようになってようやく何とかしなくては・・・という雰囲気が広がってきました。
大企業では食品容器の生分解性プラへの切り替えが少しずつですが広がってきましたね。
早いところそこのところ進めていただきたいものです。
ストローはじめプラスチックゴミによる海洋汚染が世界中の海に広がって生き物たちの命を奪っているというテーマ。
またマイクロプラスチックによる生態系への危機もあります。
海に限らずあの奈良の鹿たちの変死につき胃袋の中を開けて見れば、ビニール袋にスナック菓子の袋が詰まっていたなどの話も聞きます。
私も鹿煎餅の入っていたビニール袋を争うように食べている鹿を見たことがあります。
分かっているはずなのに販売者がビニール袋を使用するのは「利便性」でしょう。
消費者も入れ物(容器)としての「袋」を提供されることはもはや「当たり前」の時代となっています。
消費者も環境への理解度が低いのでしょうね。
スーパーマーケットなどでレジ袋を有料化した途端に客数が減ったともいいますから。
リユース・リサイクルの考え方でなく「使い捨て」精神の蔓延です。
レジ袋はゴミ出しに使用するので便利であるとの声がありますが、そのためにカラスなどにゴミ捨て場を荒らされて袋がそこいらじゅうに散乱し、終いには海に集結してしまうという状況が今の問題の根源です。
拙寺境内に於いても風が吹くと何処からともなくビニール等が巻き上がって散らかります。
献花を包む透明セロファンなど日常茶飯事ですね。
「キレイで美しい」より実をとることにまだ消費者の隅々にまで伝わらないのでしょうが包装は新聞紙でくるりと巻くのが一番と思います・・・。厄介なのが花を束にする輪ゴム。
地頭方の処理場ではそれが付いていることで草木リサイクルではなく「焼却」にしなくてはなりませんからね。
とにもかくにも都会の飲食店街の早朝を見たら「飽食の時代」の御時節を納得させられるだけでなくそれらに
「みんな知ってるくせにトボケてるな」と思うばかりです。
カラスがやりたい放題でゴミを散らかしていますね。
結局「臭いもの」の行きつくところは海です。
私ども人間も含めて生き物の故郷でもあるのですが。
人が責任というものをを持たなくては・・・どうにもならないところに来ています。
画像は早朝の福井市内。
5月の遠足2日目の朝は福井別院まで歩いてみました。
あいにく本堂は開いていませんでしたが掲示板の「永遠にコノ件変更なし」のアピールが如く退色した紙面に書かれた文言を見てここまで足を延ばしてきてよかったと思いました。
それは正信偈お馴染みの「不断煩悩得涅槃」の語です。
こちら当流ならではで他宗では理解でき兼ねる言葉かもしれませんね。バスの中でその件触れましたがあの「馬好き」の増田氏はまさに有り難いことだと喜んでいました。
数え切れないほどの煩悩を抱えたまま「涅槃を得る」~往生極楽~「正定聚不退の位に住す」(御文五帖-五)というのですから小躍りして喜ぶところですね。
これはお念仏による信心であってそこには常に反省と感謝が伴うものですが、ただ一念によって涅槃・・・悟りの領域に至る、「弥勒におなじ」というのですからね。
この文意も石瓦礫の類の者たちが皆同じに「金」になりうるということでもあります。ただし、名誉と自我のために自力の修行を目している者たちにとっては敵(かたき)となってしまうおそれがありますね。
よって蓮如さんは「他流の人にそれを説くべからず」とその御文五帖-五(信心獲得~しんじんぎゃくとく)では念押ししていました。
この御文には「令」がやはり「せしむ」の意で使用されています。
やはり阿弥陀如来他力の作用のことですね。
御文五帖-五
『信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。
この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。
このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。
これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。
これを「大経」には「令諸衆生(りょうしょしゅじょう)功徳成就」と説けり。
されば無始以来つくりとつくる悪業煩悩を、のこるところもなく願力不思議をもつて消滅するいはれあるがゆゑに、正定聚不退の位に住すとなり。
これによりて「煩悩を断ぜずして涅槃をう」といへるはこのこころなり。
この義は当流一途の所談なるものなり。
他流の人に対してかくのごとく沙汰あるべからざるところなり。
よくよくこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。』
最後の画像はどちらの駅前繁華街の早朝でも見られる光景です。前夜はその辺りで私もお世話になりましたが・・・
コメントをお書きください