昨晩のNHKの番組は「安楽死」について。
日本では許されないその死の選択についてその希望が通るスイスに渡航して望みを達成するという人が増えているといいます。
治療法の確立していない難病にかかってしまい、それから日々衰弱するまま、長期の「病床の無意識」の中に生かされるのか、それとも「自らの生の尊厳」を獲るためにピリオドを打つのか、思考を重ねたうえ、その結論に至ったということです。
新しい死の選択方法ですね。
「生きること」の教えが仏法であって「死」というものの現実については「逃れがたき無常」とは言うものの一つの機縁としていただいて、「だからこそ生き抜く」と前向きに歩を進めるきっかけとしていくものですが、その新しい死の選択について
私にはどちらが良くてどちらがイケないなどということは言えません。
しかし親族の当初のその安楽死希望の反対意見として「そのままでいい」「人の手をかけさせて生かされていてもいいじゃないか」という言葉を聞いてそれこそが当流阿弥陀さんのいう「ありのまま」なのだとハッと気が付いた次第です。
旅費をかけてスイスに行くまでもなく、「無常」は日常的に訪れますからね。
長い間病床に居ることなど意識は遠のいていって肉体的には衰弱し、いずれは亡くなることは必定。
「長きにわたり人に迷惑をかけること」への危惧は不要かも知れません。「健常である」と思って活発に動いている人も、ある時すっと消えるように病没する様子はどちらにでもありますからね。
やはり、「死にたい」は安楽死(積極的安楽死)という自死の変形であったとしても反対するべきですね。
私はたくさんの「かなわぬ生きたい」を見てきていますしそもそも命は私のものであるという所有権の主張のできるものではありませんからね→「今、いのちがあなたを生きている」。
どんなに苦しくても「いのちが続くまで生きろ」。
やはりその結論。
病床に伏したままであることは苦しいことですが人の尊厳にかかわることであるとは言い切れません。
人は時として思わぬ挫折にぶち当たり立ち直れるか否かわからないほどの絶望を味わうことがあります。
それは病であったり災難・事故であったり・・・いたるところにその人生に隠れていますね。
老中田沼意次の不憫を一言でいえばやはり時の運。
息子の田沼意知が殿中で斬殺されたことも当然にありますが、
特異な季節変動を起因とする「天明の大飢饉」という現象が政策の失敗というイメージに繋がりました。
その天明というと京都では天明の大火がありました。
東北地方で始まった飢饉と逃散によって大都市、江戸・大坂をはじめ京都まで物価高騰に治安悪化の波が迫りくる中、京都中心部は未曽有の大火によって焼け野原になってしまったのでした。
当流御本山、東本願寺も焼失してしまいます。
さて、昨秋に拙寺境内の土蔵を壊して、埃まみれの中ひきずり出したたくさんのボロボロ掛け軸のうちいくつかを当ブログで紹介していますが、訂正と判明追記があります。
それがこちら。
ブログのタイトルが『「懐恙以為宝」 恙―つつが 以為―おもえらく』でしたが、まずは訂正をしなくてはなりません。
「恙」は通常「つつがなし」という風に使用しますがそれを「恙」単体でもって病(やまい)と訳したことに違和感がありましたが、ここで吉祥寺の叔父はそれは「恙」ではなく「蓋」であるとの結論を出しました。
そのブログではあの「落款印」(上記リンク先3つ目の画像)は「だれのものか」不明でしたがそれも判明しています。
叔父は「篆書辞典」にて照合したそうですが、東本願寺十九代法主の歓喜光院乗如さん「光遍」であることがわかりました。
「光遍」とは遍く届く阿弥陀の光明を意味しますが、それは昨日記した東本願寺二十五代門主の大谷暢顯の扁額「光明普照」の「光+普」と同じです。「普=遍」ですね。
分かり易く正信偈の記述でいえば「普放無量無辺光」の件でした。
その「光遍」の「光」についてですが、本当に私はアホで間抜け・・・と思ったのは私の名にはその「光」が入っていて篆書体の印鑑まで作ってあったからです ↑ 。
ということであの軸の書は乗如さんのものだったということが判明したのですが、となると叔父はあの文字が「恙」では少々通俗的で重みが無いだろうというところから詳細再検証をはじめ「蓋」という文字に行き当たったといいます。
よって書は①「懐蓋以為宝」に訂正。
画像はキレイに処理しています。
「蓋」とは一般的に「ふた」と読みますね。難しい語では「蓋然性」などともよくいいます。
仏教では「三毒」といわれる煩悩がよく知られていますが「五蓋」といわれるやはり仏道に必需である「心の安らかさ」に横やりを入れるような障害があります。
そのきっかけとなるものが前述「思わぬ挫折」であり「絶望」でしょう。
敢えてここに書の読みを記すとすれば
「障りをおもえばおもえらく寶なり」でしょうか。
かつてのおおきな障害を越えて今がある、辛い絶望を味わったが今それをおもえば血となり肉となりすばらしい経験をさせていただいたものである・・・
乗如さんは天明八年(1788)「天明の京都大火」により本願寺焼失の絶望に見舞われます。
寛政四(1792)に49歳で亡くなっていますが本願寺再建の段取りが進み、多くの人々の協力が実現している様子を見て大きな安心と満足を得たのではないでしょうか。
当流には法主が亡くなると次の法主が前法主の「御影」を末寺に下付するというならいがありましたが②③乗如さんの御影は次代の二十代法主の達如さんが出したもの。
ということで最後の2つの画像、乗如さんが発行した御影はといえば先代の従如さんでした。
篆書の「光遍」がよくわかります。
しかし、しかしながら大火のあと、その後は何とかなると見据えたことはイイとして乗如さんがその49歳という年で亡くなったということは心労のウェイト高く、その肩にのしかかっていたことが想像できます。
この語はすばらしい言葉です。
またこの掛け軸を修復し、キレイに仕上げなくてはならなくなりました。
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