願慶寺にて松平春嶽の長刀の鞘を抜いた増田氏(昨日ブログ)は先日亡くなった相良の知り合いのお宅にお悔やみのご焼香に赴いたそう。
中陰段の真ん中に掲げられた法名を見て思わず笑いを堪えたとのこと。
そして「住職、やりやがったな・・・」だったと。
その亡き人の法名に「玉」という字が入っていたからですが、生前その方のパチンコ大好きは誰でも知っていることで、おそらく知り合いはみな同様に含み笑いをしただろうと。
ただ私は家族の意見も入れてそして、また了解も得て法名を決めさせていただいていますので、「私の独断ではない」とその「やりやがった」については否定しておきました。
すると、じゃあオレの法名は・・・「海と馬を・・・」と。
「海馬って脳の部位の名にあったけど」と返答すると「是非それで頼む」とのこと。今度、帰敬式をしなくてはね。
「馬」の字の法名への使用例は未だかつてありませんが、馬と言えば「速い」=「即」(不断煩悩即涅槃)を連想しますし、本人が良ければそれで良し。
ただし葬儀で法名について「本人の希望」であることを強調しておかないと当方に対して首を傾げられるかもしれません。
この件、息子にも伝えておかねばなりませんね。
その増田氏はかつて息子を自らのフットサルチームで遊ばせてくれた方でもあります。
さて、「玉」の法名。
蓮如さんは吉崎にてその名のり、「見玉尼」について御文(帖外の御文)にて記しています。
見玉尼は蓮如上人の娘で、吉崎に来訪後病にかかり文明四年(1472)八月十四日に二十五歳にて往生を遂げました。
娘に先立たれた蓮如さんの気持ちは大いに推測できます。
次々に縁者が亡くなっている中での事案でしたから。
そもそもその件「見玉尼」自身も縁者死別多く遭遇しているということで、累々のことに加え自らも病とはまさに不遇の人でした。
若き蓮如さんの本願寺は貧乏、困窮そのもの。子供を養育する力はありませんので彼女は幼少より禅宗の寺に出され、そののち浄土宗の寺に入っていました。
結局は父蓮如のもとに戻ったのでしたが、こちら吉崎に参り、病となってからか、念仏の道への歓びを得た人といいます。
その年文明四年の八月二十二日付の帖外の御文に記されたそれは見玉尼の往生のあとおそらく「七日」の区切りということだったのでしょう。
「見玉尼」についてはかつて「真宗の生活」で記されています。
上記はいただきものの京都の高価なお菓子「清浄歓喜団」。
高貴な香りと今風ではない食感に古風を思いました。
その「清浄歓喜」といえば正信偈の中にも出てくる「清浄歓喜智恵光」。私どもの三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)をそれぞれ(清浄光・歓喜光・智恵光)スポットライトの如く照らし出してくれる如来の「妙」。
その「妙」に導かれた時、「安心」を得られて「大満足」の境地に入るのでしょうね。
以下感動の蓮如さんの御文を。
「見玉」の意味も記されています。
帖外御文 見玉尼往生
静かに惟れば、其れ、人の性は名によるともうしはんべるも、まことにさぞとおもいしられたり。
しかれば、今度往生せし亡者の名を見玉といえるは、玉をみるとよむなり。
されば、いかなる玉ぞといえば、真如法性の妙理、如意宝珠をみるといえるこゝろなり。
これによりて、かの比丘尼見玉房は、もとは禅宗の喝食なりしが、なかころは浄華院の門徒となるといえども、不思議の宿縁にひかれて、ちかごろは当流の信心のこゝろをえたり。
そのいわれは去ぬる文明第二 十二月五日に伯母にてありしもの死去せしを、ふかくなげきおもうところに、うちつゞき、またあくるおなじき文明第三 二月六日に、あねにてありしものおなじく臨終す。
ひとかたならぬなげきによりて、その身もやまいつきてやすからぬ体なり。
ついにそのなげきのつもりにや、病となりけるが、それよりして違例の気なをりえずして、当年五月十日より病の床にふして、首尾九十四日にあたりて往生す。
されば、病中のあいだにおいてもうすことは、年来浄華院流の安心のかたをふりすてゝ、当流の安心を決定せしむるよしをもうしいだしてよろこぶことかぎりなし。
ことに臨終より一日ばかりさきには、なをなを安心決定せしむねをもふし、また看病人の数日のほねおりなんどをねんごろにまふし、そのほか平生におもいしことどもをことごとくもうしいだして、ついに八月十四日の辰のをはりに、頭北面西にふして往生をとげにけり。
されば、看病人もまたたれやの人までも、さりともとおもひしいろのみえつるに、かぎりあるいのちなれば、ちからなく無常の風にさそわれて、加様かようにむなしくなりぬれば、いまさらのようにおもいて、いかなる人までも感涙をもよほさぬひとなかりけり。
まことにもてこの亡者は宿善開発の機ともいひつべし。
かゝる不思議の弥陀如来の願力の強縁にあいたてまつりしゆへにや、この北国地にくだりて往生をとげしいはれによりて、数万人のとぶらひをえたるは、ただごとともおぼえはんべらざりしことなり。
それについて、こゝにある人の不思議の夢想を八月十五日の茶毘の夜あかつきがたに感ぜしことあり。
その夢にいはく、所詮葬送の庭において、むなしきけぶりとなりし白骨のなかより三本の青蓮華出生す。
その花のなかより一寸ばかりの金ほとけひかりをはなちていづとみる。
さて、いくほどもなくして蝶となりてうせけるとみるほどに、
やがて夢さめおわりぬ。
これすなわち、見玉といえる名の真如法性の玉をあらわせるすがたなり。
蝶となりてうせぬとみゆるは、そのたましゐ蝶となりて、法性のそら極楽世界涅槃のみやこへまひりぬるといえるこゝろなりと、不審もなくしられたり。
これによりて、この当山に葬所をかの亡者往生せしによりてひらけしことも、不思議なり。
ことに茶毘のまへには雨ふりつれども、そのときはそらはれて月もさやけくして、紫雲たなびき月輪にうつりて五色なりと、ひとあまねくこれをみる。
まことにこの亡者にをいて往生極楽をとげし一定の瑞相をひとにしらしむるかとおぼへはんべるものなり。
しかれば、この比丘尼見玉、このたびの往生をもてみなみなまことに善知識とおもいて、一切の男女にいたるまで一念帰命の信心を決定して、仏恩報謝のためには念仏まうしたまはゞ、かならずしも一仏浄土の来縁なるべきものなり。
あなかしこあなかしこ。
吉崎御坊跡、蓮如さん像の近くに見玉尼のお墓があります。
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