明智光秀の妻の名はともかくとしてその妻の出自は妻木明智ということで間違いないところでしょう。
しかし一番の疑問は「光秀の父は?」とその系統すらわかっていませんね。
その明智は明智でも土岐氏分立はという所も確定的とはいうもののその分流・・・? は確かな根拠がありませんので研究家の中で多くの推測が上がっているというのが現状ですね。
明智と言えば恵那の岩村城近くの遠山家流の明智城がありますし可児にも明智城がありますね。
駅名「明智駅」の名のりでも明智線と名鉄線とで2ヵ所ありますからまた紛らわしい。
そしてそれぞれの地で明智光秀の出身地としても主張しているようです。
しかしそのような中、妻木城の「妻木明智」もその光秀の出自について十分にありえるのではと、あの「立ち話」から思ったのでした。
確証はないものの世間様の通説から一歩離れたその妻木明智説を推測するのは明智の妻がその妻木出自とはいうものの実は明智光秀自身がこちらの出自であったのでは・・・とも思えますし、また妻木の分流の者同士での婚姻があったとも思量できるところです。
さて、歴史に関する書物、物語について、江戸期に囃された読本や演劇等創作モノからの情報はお楽しみはあっても真実の観点からすれば眉唾なものが多いので史料としては論外です。
また特に権威権力者の元で記された記述は結構に「演出」があって、鵜呑みにはできないというのが常ですね。
よってその時代の事象を記した文書を地道に当たって、真実に近いところを追っかけていくわけです。
たくさんの資料の中でよく言われるのが公家や坊さんの記した日記の探索の重宝です。
人の日記というものは扱う事象が些末で退屈なものが多いのですが内容は少なからず虚偽からは遠くしかも世間事象に客観的。要は知りたいポイントの的さえ射ていれば絶妙な情報になるのです。
そのような中、興福寺塔頭の多聞院の僧が三代に渡って日記を記して引き継いだ「多聞院日記」は戦国期中央の「第一級史料」として認識されています。
その中の記述で「惟任の妹」(明智光秀の妹)を記した部分があります⑥画像。
「多聞院日記」の天正九年(1581)に「惟任の妹が死んだ件」です。
今暁惟任被帰了・・・今暁惟任(光秀)帰られおわんぬ
無殊儀珍重々々・・・ことなきぎ珍重珍重
去七日八日ノ比歟・・・さる七日八日のころか
惟任ノ妹ノ御ツマキ死了・・・惟任ノ妹ノ御ツマキ死おわんぬ
信長一段ノキヨシ也・・・信長一段ノ気好也
向州無比類力落也・・・向州(日向守光秀)比類なく力落す也
光秀が多聞院に滞留していたことが冒頭わかりますが、この記述で一番の情報が光秀の妹の名が、「御ツマキ」だったということ。そして彼女が亡くなって光秀はひどく落胆したこと、また「御ツマキ」は信長の「気好」(キヨシ)・・・お気に入りだったということ・・・で信長の側室だったことも窺えます。
この「キヨシ」(気ヨシ)については関西系で今もよく使う「気(い)ワルイ」の反意語。まったくこの記述に違和感ありませんね。
その「御ツマキ」は他の文書にも出てきますのでその人物の存在と名に関しては疑いのないところですがその「ツマキ」は・・・やはり「妻木」からでしょう。
明智の妻が「妻木」で妹の「名」も「ツマキ」。
明智光秀がやはり「妻木」「ツマキ」であっても別段不思議はありません。
画像は妻木城より。
妻木川を中心に流れる盆地上にある妻木ですがその南の山系の城山に妻木城があります。
妻木の町の北は妻木氏の本家筋土岐氏の土岐市街方向となります。
城の真下に妻木川が流れていますが水源は豊富の様、今も水が枯れないとのこと。
このような「必要最小限」の案内程度(現状維持)と草むしりのボランティア、そして地元を愛する後継者の育成に励まれている様子が先日の立ち話からうかがえました。
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