古い時代の過去帳を見ていると女性の名が記されていないのは当たり前の事。
御当主の名のあとに「○○妻」「○○娘」とその名は無し。
また昭和に至っても「〇〇事」と通称を・・・
人はこれを「女性蔑視の最たるもの」としてお怒りになるかも知れませんが、その感覚は少々端折りすぎの論。
当初は私もその傾向は少なからずあるものかと考えていましたがそれはそもそも庶民感覚であったとして伝えるべきは「家」であって代表するものは「個人」に非ず、あくまでも「家」が主体であったということ、「本名」は隠す、諱の文化もあったこととその女性が名乗りをすることの意味もなくいわゆる「どうでもイイ事」だったはずです。
男子でさえ諱が伝わっていない武将の子息はまたぞろあるほどですしね。
そしてまた、特に妻・娘はどちらの家でも大切にしたいというところはいうまでもなく人様にその名など知らせる(公称する)必要がまったくなかったのです。
よって「蔑視」という言葉では簡単に言い記せない感覚があったのでした。
私たちは時代劇というカタチで劇中飛び交う女性の名を聞いてそれが当たり前のように、現代社会のそれと同様に視聴しているワケですが、歴史の中の本当のところは「それはなかった」と言い切れるでしょうね。
さて、昨日の「立ち話」の中で私は「明智の妻」の美談(朝倉義景のもと連歌会と酒宴の用意のため髪を切って費用を工面)とその名「煕子」(ヒロコ)についても問いました。
西教寺の芭蕉の碑はその言い伝えを知った芭蕉がその
「月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せむ」を門弟の奥さんの自身への歓待の感謝として詠んだといわれていますが、そもそもその美談もあまりアテにならない作り話なのかもしれません。
明智光秀の色々は勝者方の敗者方家系抹消と創作に始まって江戸以降の物語、演劇を通して固まっていったのでしょうね。
ただし伝承とはいいますが「明智光秀の妻」は高い確率でこちらの妻木明智の出自は知られています。
ここは間違いないところではありますが、興味といえば明智の妻の名の変遷ですね。
大抵と言うか殆どの場合、今その名は「煕子」(ひろこ)が大手を振って通っています。
私もその「煕子」が頭に刷り込まれていましたのでその立ち話で「煕子」とつい口走っていましたが・・・
今はさもそれが当たり前の如く明智の妻=「煕子」と断定的な記述になっていることは確かです。
まぁ「名」は「どうでもイイ」印であってタダの形式と解すれば何であってもイイのですが一応は気に留めているところではあります。
そうは言っても司馬遼太郎の小説をベースにした大河ドラマでは「槇」(功名が辻)「お槙」(国盗り物語)になっていましたから、やはりその「煕子」もかなりあてにならないそのあとの創作であることが推察されます。
これは西教寺あたりの旗振りでその名が固まっていったのかも知れませんね。
そちらの案内板にはしっかりとその名が記されていました。
さすがに「明智の妻」そのものの存在を今度の大河ドラマで端折るワケにはいきませんので今度はどちらの名を「採用」するのかも興味の一つです。
ドラマですから登場人物の名前は必要でしょう。
どちらにしろ地元妻木では「その名は不詳」というのが本当のところ。
妻木城登城はインチキですが大手道徒歩ではなく自家用車を利用。②ゴルフ場の門を入ってからさらに林道に分岐します。
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