テレビ画面から映し出された琵琶湖は穏やかで向こうに見える比叡の山並みはくっきりと。
あの瀬田の唐橋からも遠くない湖東湖岸を北にあがるあの道で発生した交通事故の画像はショッキング以外何物でもありませんでした。
またも幼き命が失われ、いやはや声も出ないほど。
惨すぎます。
ただただ私たちができることは交通の安全について今一度より注意深く自身検証しなおしていく必要があるということですね。この言葉はほとんど私自身へのものになりますが。
あのような加害当事者に絶対にならないようそのためのいわゆる保身。しかしそれは結果的に他者を守ることになります。
さて、先日は一乗谷に建つ本願寺派の一乗山浄覚寺についてその私が驚された点を記しましたが、その理由についての詳細は不明であるというのが本当のところ。
信長(先鋒柴田勝家)によってあの地はリセットされてしまったからです。
形跡としては「庭園」らしき場所が石材の存在で推測できるばかりで「人」は勿論「物」も完全に失われゼロにされてしまったことによってその人々が歩んだ歴史は消えて失せたということです。
浄覚寺の由緒に関しては不明とはいうものの不確かではありますが伝承として残るいわれは先日記した通り。
しかしまだまだ朝倉家の謎は尽きません。
信長の言いがかりで元号の「元亀」を早々にやめさせ「天正」に変えさせたのでしたが、これは信長の「我が世」の思い、高慢ちきなところですね。
先日も記しましたが「元号」を差配するまでのお調子者がその10年後に家臣明智光秀によって滅ぼされたということなど、人間世界の皮肉の際たるもので如何にも面白いところでした。
一乗城の要害性はなかなかのものですが、城域の広大さがネック。手勢が無ければ多勢の攻城には耐えられるはずもなく、そうなれば城を捨てて逃走するというのが得策。
信長は天正に改元されてからスグに行動を起こしますが、まずは近江攻め。
朝倉義景は越前から万単位の兵力をもって何度も対信長戦に赴き、いかにも中途半端な戦いとしか思えない戦陣を敷いていましたがその際も近江の浅井の救援に向かい、あっけなく敗走しています。
近江からの一乗谷への帰還は信長による「ここぞ徹底的」という勢いに成すすべもなく潰走、一乗谷も城も捨てて付くべく家臣たちも失って尚、案内役の従兄弟の朝倉景鏡の裏切りによって自刃したのでした。
実はそれ以前、元亀二年、義景は旧来犬猿の仲だった加賀一向一揆そして本願寺顕如との和睦を成立させていました。
結果的に「既に遅し」の感がありますが、その際、義景の娘二人のうち妹の方と顕如さんの長男教如さんとの婚約が成立していたといい、父義景滅亡直後、それを実現させるために秘かに大坂に向かって、教如の妻として入っています。
その後、教如が石山本願寺を退去する際に離縁したというのが通説で、それ以後の彼女の消息はまったく不明。
もしかするとその人が一乗谷に戻り、真宗寺院を建立し尚、「朝倉」を名のって一族の菩提を弔おうとした・・・などとも考えてしまうのでした。「人の想い」というものを考えればごく普通の流れです。
というかそうあって欲しいというのが私の思い。
捕縛された義景の近親の者たちは悉く斬られていますがその奇跡的生き残り、義景の直系といってもいい血筋ですからね。
江戸期になって教如さんは東西本願寺分流の際のお東(大谷派)のスタートとなる人ですが、現在の浄覚寺のお西(本願寺派)との矛盾は大した意味がないことだと思います。
その当時は顕如さんの後継は教如さんというのが常識。
秀吉の天下になってからちゃちゃを入れたことが分立の発端です。
画像は一乗谷朝倉義景屋敷跡。背後に一乗城。
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