人の災いを省くこと 髑髏目中の草を抜くが如くすべし 野晒悟助

タイで日本人のオレオレ詐欺集団が検挙されたというニュースがありました。

年配者からおカネをむしり取ろうと架空ドラマ仕立てに嘘八百を並べ立てて今国内を騒がせている輩ですが、なんと逮捕されたのは15人もの若者ら。

オレオレ組織を壊滅させたタイの警察にその通報者の方、本当にいい仕事をしたと思ったのでした。

 

まぁ「日本国内はそろそろヤバい」と思ったのか最近は拠点を海外に移してその手の悪さを継続しようとする連中が蔓延っているようです。

「事務所」には営業実績のグラフなどあって(騙しの)達成目標と詐欺達成を競わせるところなどどちらかの「会社営業部」の様を彷彿。システム化した組織の構築でしょうか。

 

しかし短絡的。

「カンタンに儲けられる」という話に乗ってそのシステムの一員になろうとその勧誘に応じて旅券を取ることになったのでしょうが、世の中そう「ラク」などあるものではないですね。

以前も中国に行ってその手の「企画」に手を染めた連中がありましたがあっちで捕まっちゃうのと日本でお縄になるのでは雲泥の差です。

 

日本の警察当局も外務省も「海外に於ける自国民の保護」を基本としたスタンスはあるものの日本国内の国民的感情論(当然に排除すべき)からして積極的に動いてくれることなどは期待できないでしょう。

むしろ見せしめ効果を狙うべきとの意見もあるかも。「うまい話」に飛びつく後発組を絶たなくてはなりませんからね。

 

彼らは何から何まで日本的通念とはかけ離れた場所で「挙げられ」たことを覚悟しなくてはなりません。今更ではありますが。

異国にては交通違反でさえやらかしてはマズいという感覚が未達、気軽に医者にもかかれません(バカ高い)。

何よりバカがつくほどお気楽だったのでしょうか。

 

「郷に入れば郷に従え」。

お国柄それぞれある中、そちらの法理念というものがありますので基本我が国の口出しは無用。

大抵の周辺各国は日本の「人権・プライバシー」重視の法感覚とは異にしてハッキリいって「犯罪者にはそんなもの無視」的発想のもとにありますね。

 

ネット回線を利用した格安の発信ですから以前のような国際電話の高額使用料はありませんしお気楽気分で犯行を繰り広げられるという算段でしょうが、いざ犯罪者として収監されるとなれば劣悪環境での異空間の生活が始まります。

それら後悔しても後の祭り。そもそもいつ日本に帰ってこられるかなどわかりませんからね。

要は「カンタン」に自身絶望も味わうことになるのです。

 

それを人は「ざまぁみろ」「自業自得だ」と報道陣の前にひきずり出されて必死に顔を隠そうとしている様子を見て面白がるわけです。

その哀れな画像を目の当たりにして、それは「ざま(その有様)を見ろ」の通り自らのこの姿を顧みて反省をすることは大切と思いますし、これで被害を少しでも減らすことができたと安心が得られるわけですが、やはりどうしても彼らの親たちの存在が心に残るのです

 

「郷に入れば~」ならぬ「業に入れば法に従え」で我が罪業に対しての咎は自身が背負い込むことは致し方ないにしろその親たちの心境ときたら複雑でしょう。

 

私はあの若者たちの「顔だけは何とか」と必死に「我」を隠そうとする姿を見て、遠い国で起こったこの画面中、見苦しく振舞う者たちの中に「ひょっとして我が息子ではないか・・・」などとその「不安」を惹起させることほどの残酷な状況はない・・・と思うのです。

 

というのは彼らが「ラク」に「カンタン」に「稼ぐ」「儲かる」ことこそが「最良の道徳感」であることを成長過程の中で植え込まれているような気がして~既に彼らはそれで動いている~それであるならば誰でもがその方向性はありうることだと思うのです。

 

これはいつも記していますが「日本的道徳観の欠落」と一言で記します。

まぁ私が日頃感じるところは最高学府の大学の学部など文系よりも理系が重んじられ、文系でも宗教学や哲学の学科への志願者も減少傾向にあるいうことからも推察できます。

 

お国はじめ世の中の志向は「儲かる」「稼げる」であり日本全体がそれを後押しするようなスタンスにあることは間違いないでしょうね。そういった土壌に生まれてきてしまったのです。

オレオレ詐欺は日本特有、この時代が生んだ「手っ取り早く」精神が行きついた病理だと思った次第です。

 

さて、昨晩のお楽しみはEテレの菊五郎劇団。

去年の6月の歌舞伎座で公演されたのもので「野晒悟助」(のざらしごすけ)でした

悟助の設定を記せば父を亡くしたあと一休さんの弟子になるのですが性格が坊さん向きではないということで商売に転ずる「坊さん崩れのちょいとヤクザな大坂千日の葬儀屋さん」というところ。

例によって時代も場所(室町時代と大坂千日)もサラッと流して劇に熱中。

 

 

信心深く日々懐には数珠を抱き念仏は欠かさず、謙虚で優しい色男です。しかも強い。

因縁をつけに来た不届き者の振る舞いに「母親の命日」を理由に喧嘩はせず。只管やられるままに(辛抱立ち)耐え偲びます。

 

それを市川左團次の敵役の台詞「見れば見るほどみじめなザマだ」と観客一同をも巻き込む鬱憤を抱かせます。

 

ちなみに大河ドラマファンだったら風林火山の上杉憲政役が左團次だったといえば知る人ぞ知るですが、そうは言っても「知らねぇよ」と言われるかも知れませんね。私はその世界では菊五郎親子に次いで好きな役者です。

あの「龍若丸~」の上杉憲政、我が身の判断失敗の後悔と絶叫は強く記憶に残ります。

わが息子を死に追いやってしまった慚愧でしたね。

 

子供の振る舞いは「親の責任」とは言われることもありましょうが親としてそれら結果は辛いものがあります。

 

表記の「人の災いを省くこと 髑髏目中の草を抜くが如くすべし」は野晒悟助のその「野晒」のモットー。

古き良き時代の江戸っ子の心意気、憧れ的生き方ですね。

 

「野晒」とは今井信郎の刀の名称(髑髏の柄)にもありましたが「野垂れ死」して骸骨となった髑髏の事。

山岡鉄舟その身境涯を表す意か、やはりそれを好んで表していました。

 

「髑髏目中の草」は髑髏の目の部分から頭を突き抜けて草が生えてくることですね。

辛い境遇にあってさらにその草の貫通は痛かろう苦しかろう、往生を妨げる要因になるだろうとその草を抜いてあげる心配りを言っているのです。

 

そのほんのりとした優しさ、仏心が今世間には欠けてきているのですから、今一度この演目を流行らせてやろうというのが菊五郎劇団の試みでしょう。

 

劇中、野晒悟助が「浮世戸平」(こちらは菊之助)との争いのシーンがありますがそこに分け入って止めに入り手打ちをさせる人物の名が「六字南無右衛門」。

同じ「狂言」でもこちらの方はグッときます。

 

画像はネット上から拝借した浮世絵から。役者は違います。