昨日の当家のサプライズは父方祖母、石川文子の実家の三河からそちらのご家族4名様がお参りに来られた事。
テラス2階にたまたま用を思い出して外に出たところをお見掛けしたもので「見かけぬ方・・・」と思いながら会釈したところから話が弾むことになりました。
2012年に私が先方様に突撃訪問した際にはご不在でしたのでいいご縁をいただきました。
「今度は私が行きま~す」とお別れしましたがこれから皆々様は御前崎灯台に行くとのことでした。
祖母文子は祖父との行き違いから実家に帰って(出奔)しまったといいますが、これは祖父の姉3人との複雑な関係等色々あったのでしょうね。
その祖父(13代目)の姉、12世の次女にあたる人が今井鈴。
その同姓同名の「朝ドラ」劇中名と鈴さん自体が「今井三姉妹」の一人ということもあってより親しみ深く「まんぷく」を視聴したのでした。
さて、ずっと耳で聞いていたこと、知らなかったことについて昨年の夏以降土蔵を壊す際に出てきた古文書にてこの目でもって明らかになったことがたくさんあります。
昨日は三河からのお客様たちがお帰りになったあと例のまだ触っていない古文書類を何となく捲ってみました。
かといって腰を据えてあの大量の文書類(大抵が幕末から明治の頃のもの)を一つ一つ検証していくという気はまだありませんが。
明治政府になってから寺のデータをお上に報告する書類が何件か出てきていますが、その手の書面の内容は各微妙に違っていて、昨日も「そうだったのか・・・」という発見がありました。
先ず①の太子堂について。
前年の資料発掘の際、拙寺境内に太子堂があったことが初めて分かったのですが、これは暴風によって壊れてしまったというものです。
その太子堂の聖徳太子木像の寄進者が成瀬隼人正。これは初見でした。
そしてどこにどのくらいの規模の太子堂があったのか不明でしたが、昨日目にした資料にはその大きさと位置が記されていました。
九尺四方で鐘楼と同じ。場所が鐘楼と井戸の間辺りということです③。どうりであの辺りを掘ると瓦屋根のガラが出て来るワケです。
また②からは本堂材木の寄進者の名がハッキリと。
田沼玄蕃頭です。
田沼意次四男の意正ですが何をいわんや相良城破却後の件を示唆している感。
拙寺本堂再建の材がこれまで「相良城建築余剰材」説がまかり通っていましたが私はそれはあくまで松平定信の権威を憚っての事だと考えていました。
祖父は当初集められた材を使いきると尾張名古屋城よりも規模がデカくなってしまう・・・のようなことを言っていましたがそれは信じられません。
図面をおこした段階でそれはわかっていることですので。
言い訳(相良城の破却材をどこかに隠し持ってそれを利用した・・・)の伝承を真に受けて語っていたのでしょうね。
しかしどうやら私の推測通りだったということかも知れません。
ハッキリと断定できませんが、本堂材木がその相良城の新品の「余剰材」を利用していたら寄進者は「田沼主殿頭」(意次)になるはずです。
ここで寄進者に田沼意正の名を記しているということはその時期を相良城破却後と記していることは間違いないところ。
結論から拙寺本堂は相良城御殿のリサイクル材ということで落着するわけです。
当初の「余剰材」の意味も、相良城破却後の木材を各搬出後の余剰材と解釈もできますし。
そして②の左ページ「海舩御役寺」についてまたも出てきましたがその詳細について知りたいものです。
④12世祐闡の二女今井鈴の小学校一年の修業書。
進学する度毎年1年ごとにこの手の証書が発せられていました。
この人が後に大阪の富田家に嫁いだあと、軍に取られてしまった鐘の無い拙寺鐘楼に哀れを覚えて戦後、梵鐘再建の旗振りをして多くの資財を寄進してくださいました。
梵鐘にもその旨記されています。
尚、あのドラマの劇中の「今井鈴」とはまったく関係がないということを加えて記します。
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