昨日は「智慧」の「慧」について記すにあたり文殊菩薩(文殊師利法王子)を引き合いに登場させました。
しかし阿弥陀さんにも「智慧光仏」と私たち衆生に及ぼす阿弥陀仏の力(光線)の如くの別名(十二光)がありました。
正信偈では「清浄歓喜智慧光」と登場。
また「智慧の光明はかりなし~」も、あまりにも私どもが日々馴染んでいる和讃がありました。
ちなみに「十二光」を羅列すれば
無量光
無辺光
無碍光
無対光
炎王光
清浄光
歓喜光
智慧光
不断光
難思光
無称光
超日月光
と眩いばかり。
正信偈中お馴染みの文言ですがもともとは大無量寿経からです。
そして阿弥陀経では冒頭部分「文殊師利法王子」の次に登場するのが「阿逸多菩薩」(あいったぼさつ)でした。
この阿逸多菩薩が弥勒菩薩(慈氏菩薩とも)の別名ですね。
真宗系、私どもの墓地を見回しても目につきますが墓石に「不退」とか「不退転」の語があります。
これは「阿惟越致」(あゆいおっち)の訳語で~阿弥陀経では阿毘跋致(あびばっち)~その音が似ている通り「阿逸多」(弥勒)のことを言っているのです。
最近は墓碑にその語を記すことはなくなりましたが以前は何故にそれが記されているかというと、やはり当流和讃に頻出する弥勒の件「弥勒におなじ」のフレーズが「不退転」であることが根拠。
よく政治屋さん他権威者の会見などの言葉にその語がよく聞こえてきますが私にはそのままの通り「弥勒におなじ」と聞こえてきます。
「弥勒におなじ(決意)」(便同弥勒)ということですが、当流にそれに「決意」などいう仰々しい語は似合いません。
そしてそもそも「弥勒の化身的」発信は「胡散臭い」というのが歴史の中の定番なのでした。
またそれは決意という類のものではなく「他力の信心」というもので敢えてそれを記せば「動かぬ信心」ということでしょうか。
「弥勒に同じ」ということはそもそも「往生極楽が約束された身」ということを言っているのです。
それは墓石に刻まれた「不退転」の通りでしょう。
よってかつては墓石といえばその「不退転」(=弥勒におなじ)の語を刻んだのでした。
ただしその決定事項(「同じ・・・」)とは釈迦入滅の「56億7千万年後」にそれが実現するといいますので果てしない未来の事を言っているのです。
よって「不退転」なる語を墓石に記さなくなったその理由は「弥勒とおなじでは遅すぎ、成仏するのは今・・・」だったと。
念仏して(「即得往生住不退転」となり)信心獲得したのだの宣言として「南無阿弥陀仏」や「倶会一処」が主流になったのでしょうね。
ただし弥勒菩薩の「今でしょ」説は歴史的に見て危うい部分がありました。
これは上記「即得往生住不退転」の阿弥陀仏への信心とは全く異にする「今」ですね。
何せ釈迦入滅後に相当のインターバルを置くとはいいながらも弥勒が出現してくれることは間違いないことなのですが、人は時代時代の困窮災難の時に「弥勒菩薩さえいてくれたら・・・」の希望を持ったものなのです。
人々はその出現に大いなる希望でもって現実の苦痛を逃れようとしたのです。
そこに来てその願望に応えようと「私こそ弥勒菩薩の化身です」の如くの怪しい輩が出ては消え出ては消えと名乗りをあげては人身を惑わし、各煽動を行ったといいます。
世に一向一揆という為政者反発集団行動が有名ですが、他の各一揆の主導的理念としてこの弥勒菩薩出現がバックボーンにあったとも推測されます。
よって御開祖親鸞聖人がその法縁経典の中にその弥勒菩薩の名を多く散りばめているのは当時の末端庶民へのその対照提示がいかに分かり易く親しみやすいことだったかを推測できます。やはり文殊菩薩の智慧と慈悲に続いて、その弥勒の別名の「慈氏菩薩」の通り、衆生は今享受したい「仏の慈悲」現出を熱望していたことがわかります。
さて、当尾(とうの)の路に「ミロクの辻」なる三叉路があります。
奈良県から京都府に入ってスグという感じ。
これはその交差点近くにある通称「弥勒摩崖仏」があるからですね(場所はこちら)。
この石仏は肉彫りではなく線刻。
経年もあってハッキリとはわかりにくいですね。
こちらの摩崖仏は笠置寺摩崖仏のコピーと言います。
ただしその時代も1274年、鎌倉期といいますから。
判読不能につき史料から。
願主は「永清」による造作とのことで彼の亡父の上生(往生)を願いつつまた当流でいう回向文「願似此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」的な事が記されているとのこと(後述)。
⑤近くの首無し石仏はおそらく廃仏毀釈の咎でしょう。
この細道を進めば当尾で浄瑠璃寺と並ぶ古寺、岩船寺に辿り着くようです。
⑨は阿弥陀経から。文殊菩薩と弥勒菩薩。
掲示板には弥勒菩薩を「如来」と記しています。
ということは「今、出現している」を示唆しているのでしょうが製作者の意図とは違うかもしれません。
川勝政太郎氏の記述
「二重光背形の深いほりくぼめを作り、その内に如来形の立像を線刻する。像は向かって左側へ斜に向い右手与願印、左手施無畏印とする。これは有名な笠置の五丈の弥勒如来像を模したものであるが蓮座は前半を省略して足の乗る部分と後方だけをあらわしている。像の両脇に各一行として『願以此功徳』の法華経化城喩品の四句の偈と『文永十一年1274甲戌二月五日 為慈父上生 永清造之 ◇◇◇◇大工末行』の銘を刻む。永清という人が亡父が弥勒浄土へ上生することを願っての造立であるが、元弘兵火に笠置石造が消失する以前の模像である。石大工は伊派の末行である。」
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がつお (日曜日, 24 3月 2019 10:02)
マンジュシュリーに続いてマイトレーヤとなると次はサマンタバドラあたりでしょうか。
フリーのメアドが文殊師利菩薩と弥勒菩薩が関連しているのでつい書いてしまいました。
ところで話は全く変わりますが、成瀬氏のことについて少し。
以前のブログで干城録について他の方が紹介されていたので既にご存じであるかもしれませんが、国立公文書館のデジタルアーカイブで見ることのできる「略譜」や「諸家系譜」においても成瀬家の分が記載されています。
寛政譜の場合、旗本となって以降のものしか記載されていない場合がありそれ以前の家譜を見るのに役立てています。
もし未見であればご覧ください。
今井一光 (日曜日, 24 3月 2019 20:40)
ありがとうございます。
しかしこのような「文書」を紐解く「がつお」様はどんなお仕事に就いておられるか
興味がわきますね。
専門的内容ですのでそれらに出会うこと自体稀だと思います。
私も寛政譜を適宜手にする程度でその選択肢の存在が他にもあることに驚きました。
時間があるときのんびりと捲っていきたいと思います。
どハマりすると大変です。