発表された日本人の幸福度ランキング(58位-G7中ビリ)ほか女性の社会進出に関しても、みっともない話で非常に低い数値が出現していました。
「幸福度」の中のカテゴリー「他者への寛容性」のランキングとなると92位。酷い世の中になったものです。
半面日本の「ギャンブル大国」振りについてはアメリカの博打屋(カジノIR会社)からは「雨の如く円が降り注ぐ」などと垂涎ものの如く高評価がありますね。
その根拠はラスベガスの粗利8300億円に対して日本の博打場トップのパチンコ業界だと、こちらは売上ですが19兆超え、他の色々の公営施設の売り上げ5兆円が加わると、すべてのバクチで24兆円のカネが飛び交っているということです。
要は博打天国なのですね。
だから所詮「自己責任」ということにして大いにバクチ「やりましょう」と進んでいるのがIR法。
トランプの後ろ盾になっているといわれる大手の博打屋(カジノ王)が日本に進出してのひと儲けを企んでいるわけですね。
よって当国のその推進者はトランプの飼い犬たちといっても過言ではないかも。
「カジノ税」と称するアガリは国と自治体が30%(15%ずつの折半)で黙っていればそれだけの収益が転がり込んでくるという算段です。
また7割がカジノ業者側の懐に入るというワケですがその経営も許可権者もそちらに赴くギャンブラーたちもみんなが「甘い汁」を吸おうというのがIRで世間にその「一攫千金」の風潮が流布していくというのは困りますね。
社会が荒んでくることは間違いないでしょう。銭の病の重篤化です。
「ぜにのないやつぁ俺んとこへこい 俺もないけど・・・」の植木等の歌詞が懐かしく思います。昔の日本人にはそんなギスギス感はなかったような。
今は各「甘い汁」を吸うことばかり思考しているようですが、まぁそれはプラス、有意の志向というものですね。
しかしそもそもその一番に「甘い汁」というか射幸心を煽られて入場したギャンブラーの皆さんですが大抵が大損させられることになります。それだけは決定事項。
勝つのは胴元と誘致したノーリスクの自治体に国ですね。
しかしそのプラス効果とおそらくその「プラス」も相殺されてしまって効果という面で意味がなかったと落胆する結末が推測できます。
ギャンブラーの損失によるその人物と家族の崩壊は勿論、IRと関連施設の集中があれば既存の地域消費が衰退し収益が減ることになりますね。
どこかの収益が上がればどちらかが下がることはシーソーの如くです。
そうなれば当然に雇用も失われますから、IRによる雇用の拡大の算段も±ゼロ。
ギャンブル依存症に対する対応というか社会全体が負担していくコストも大いに覚悟していかなくてはなりません。
「病」となれば病院に行かなくてはなりませんからね。
ということでIRにバラ色の収益源を期待するのはムリのような気が・・・。
収益源は外国人客2割として8割が日本人の来場を期待しているのですね(ギャンブル大国25兆円のおこぼれを吸い上げようという魂胆は前述した通り)。
日本人の貯蓄率の高いところを狙っていることはいうまでもないところ。それを吐き出させるのが魂胆。
他の消費に回るべきおカネが「あっち」に回れば「こっち」は当然に減って成り立たなくなりますので全体の経済効果の観点からしてもチャラになるはずです。
マイナス面の方も考慮していないというのが今回のIR無理強いでした。全部失敗したら荒涼とした人のいない焼け野原が見られるのかも。
さて、先日記した「摩崖仏が川沿いにあるのは・・・」の続き。
そちらでは川による浸食によって露出した岩盤が出やすいのだ、ということを記しましたが本日は「川沿い」ではなく「川向う」です。
その際記した「北出磨崖仏」などまさに私の立ち位置から見て「川向う」でした。
ちょっとその前にその際私の感ずるところの「摩崖仏の仏」について「地蔵が6阿弥陀が3他の仏が1」などとざっと記したわけですがその件、結構にいい加減であることはいつもの通り。
だいたい「石仏」=「地蔵」という感覚があるのですから。
よってそのイメージが各地方での伝承に影響して現在の石仏・摩崖仏の名称に一律に「地蔵」と名称が記されたりしています。
厳密に言えば「地蔵」とは「地蔵菩薩」であって仏典根拠による修行者(菩薩)の名ですね。他にもたくさんの仏たち、如来もある中、それら石仏を一緒くたに「お地蔵さん」なる呼び名でもって表すことも承知しています。
また地蔵といえば六体セット(六地蔵)の場合も多く見られ(特に人の目にする場所に多し)石仏含め摩崖仏系といえばやはり「地蔵」の存在の圧倒感は致し方ないところてす。
しかし要は「阿弥陀仏」であっても地元では「地蔵」名称を継承していることもあるということでそうなると親切にも地図に落とされている時などもやはり「地蔵」のまま。
よってその割合も結構に逼迫してくる(4-3くらいに)かも知れません。
その阿弥陀仏の摩崖仏が川の向こう岸(と感ずる場)にあるのは製作者が「二河白道」のストーリーを意識していたということでしょうか。
「こっち」(此岸)からはお釈迦さんが「行け」で「あっち」(彼岸)からは阿弥陀さんが「来い」の現場を再現しようというものですね。
しかし良好なキャンバス(岩盤)が露出している場所限定となりますのでそれはあくまでも製作者の意識。
また、傾向としては阿弥陀さんがいる場所は「西」というのがまぁ「お決まり」のパターンではあります。
中には「無頓着?」と思わせるものもありますのでそれらがすべてではないということは付け加えなければなりません。
そして三途の川の渡賃は六文(銭)と言われていますが「白い道」の渡りに必要なのは阿弥陀さんの声に応える「信心」だけです。
画像は通称「大門の仏谷」(場所はこちら)。
こちらの字名「仏谷」だけに阿弥陀さん摩崖仏は川ではなく「谷向こう」におわします。向こう岸のイメージは踏襲です。
こちらは座像で2.5mと大身ですね。
あたかも「こっちへ来い」の様相でしたが、ここの道は地元車両しか通行しないような山路。
停車する場所もなくあの時は降雨だったため如来の足元まで行くことは遠慮させていただき対岸にて合掌。
そのあと車を切り返すために前進しましたが戻るのにかなり苦労しました。
この仏谷への目標は「加茂青少年山の家」という京都府の施設。地元ではただ「山の家」と呼ばれています。
この呼び名はいわゆる「海の家」に対するもので宿泊施設もあったようですが、既に閉鎖されています。
このような自然と歴史の豊かに溢れる地で子供達を遊ばせ、それを肌に触れ感じさせるは有意義なことなのですが「需要がない」ということ、当初の目論見も外れたのでしょうね。
まったくもって痛ましく寂しいことです。
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