私の頭痛は季節性です。
最近は殆ど頭痛薬を手放せない状態が続いていますが、これは寒気のせいだと思います。
体が冷えるとダメですね。
夏場でも海に浸かって動きまくったあとなどもその症状が出ていましたがおそらくそのメカニズムと同様でしょう。
要は血の循環が悪くなって酸素や栄養が届いていないか、血行の悪さが私の持病、頸椎と神経の関係に何かちゃちゃを入れているのでしょう。
特に最近は困ったことに頭痛薬の効き目が悪いというところ。
寒気が人の体調を壊すというのは葬場担当者の言でもわかります。正月明けはたまっていた分が「どっと来る」のはいつものことだが、今年はそれからも「毎日5番まで」と。
4番は11時点火となりますのでそれ以降は葬儀式開始が14時以降となるか「前葬-さきそう」になります。
先葬とは午前中に葬儀をして午後に火葬という段取りになりますが、ちなみに南遠地区は出棺・火葬を先に行うというのが慣例です。おそらくそれは全国的に見て逆なのかとは思いますが・・・
付け加えると以前から「前葬」の機会はありましたが、火葬後に一旦会場に戻って繰り上げの初七日法要を行ったものですが、最近は「前葬」の最後にムリやり突っ込むというのが流れ。
これは会場都合、喪主都合。相手の要望ということになりますが、そういう時、私は例によっていつもは付けない腕時計を巻いてタイムキープ、法要を進めています。
ということでのんびり進行できないというのは後ろが詰まっているから。
市内に火葬場は2カ所ありますがこちらだけで1日5人。
確実に人口が少なくなっているということを実感しています。
さて、安倍城の築城者は通説狩野貞長。
以前高草山の方ノ上城について記しましたがこちらもそもそもは狩野氏が築城したといいます。
安倍城のある台地よりもさらに南になります。
また伊豆から遠州まで、以前井伊家も藤原南家かも・・・というブログを記したことがありましたが(小和田先生)その三国、今の静岡県内の名家として歴史上各名は残ります。
井伊家を除いて戦国期以降没落してしまいます。
それは北朝方今川氏の勢力拡大によるものですが先日記した内牧城の標の如く、後醍醐天皇の皇子の宗良親王が滞在したといいます。
通説宗良親王は井伊城を追われて大平城に籠ったのちも敗色濃く、さらに信州に逃れたといわれていますが、これはその前に「安部の狩野氏の庇護を受けた」ということでしょう。
その信州にて死亡したという宗良親王の墳墓が井伊谷の龍潭寺の裏にあったりまた、ここかしこで宗良の名が出てくるということはその名の威光を拝借するという傾向があったからなのでしょうね。
安倍城と内牧城のラインのさらに安部川寄りに段丘が見えます。そちらは舌状台地の伸び切った先端といった箇所になりますが、まさにその先端の丘の上に狩野貞長の宝篋印塔があります(場所はこちら)。
残念ながら破損風化が著しかったのでしょう塔身は後補となっています。
こちらの墓域の管理者として市内の狩野氏の名が見えますのでしっかりと血脈は続いているのでしょうね。
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