空気の乾燥が続き年末から各地で悲惨な火災が続いています。
当遠州では大晦日に横須賀(旧大東町)、横須賀高校の近くで大きな火事がありました。
古い城下町の町並みでの事案でした。
火事の件、「神頼み」という気持ちもわかりますが、こればっかりは火を取り扱う者の不始末、不注意が起因するものです。
北西風が強くなる時期でもあり常に火伏・火防の配慮をしたいものです。
先日はまた拙寺「除夕の鐘」について「除夜の鐘は日本の文化である」の件、記させていただきましたが昨晩NHK(Eテレ)で見た「松竹梅湯島掛額(しょうちくばいゆしまのかけがく)」の「火の見櫓の場」で再び思いました。
数あるお七の物語(八百屋お七)の歌舞伎演目です。
伝承としてのお七の悲哀を描き、鈴ヶ森で火刑となるまでの展開となりますがこちらは少々演出が違っています。
時代背景無茶苦茶は歌舞伎の「いつもの通り」ですが・・・
お七のお相手吉三郎というところは踏襲されますが、紅屋長兵衛という人物(歌舞伎にはその「長兵衛」(またはこちら)の名はこれもお決まりの様)とのからみがありますが、ストーリーの見どころは「火の見櫓の場」ですね。お七の「人形振り」もなかなかの見どころでした。
各お調べいただければと思いますが大雑把にそのシチュエーションを羅列すれば
①お七は夜間吉三郎に知らせたい事、持参したいものがあった
②それは「明け六つ」までという時間限定
③しかし「暮れ六つ」以降は町の門番が町に出入りする木戸を
閉めてしまう
④門が開かれるのは「明け六つ」であり、それでは間に合わない
⑤しかしどうしても門は開けてもらえない
⑥そこで思いついたのが火の見櫓の太鼓を叩くというもの
⑦ただし火の見櫓の太鼓や鐘は当時むやみに叩くと曲事として
きついお咎め
⑧それでも門を開けるにはこれしかないとお七は櫓に上がる
という流れになります。
ストーリーはともかく、通例夜間は「火事以外は門が開かない」ですね。
門の開閉は日没から日の出までに関わるという日常であってひょいと夜中に出歩いて「除夜の鐘」を衝きに行くなどはあり得なかったということです。
そもそも」「夜は出歩かない」のが灯りの無い時代の当たり前ということはわかりますがそういえば「門の開閉」まであったことは忘れていました。
一日を24時間で区切って午前午後の0時などいう感覚は明治以降のもので時計という計測器が普及するまではお日様の位置と昼間の寺の鐘(時鐘)が目安でしたからね。
よってしつこく記しますが「夜間、鐘を撞く」ことは日本の伝統や文化であるとは少なくとも明治大正期あたりまでは無かったということです。
ちなみに上記、「門番」という障りのない語彙を記しましたが歌舞伎のセリフでは「番太」でした。
一応それは放送禁止用語、差別用語ではありますが歴史の中では「非人」階級として存在した人たちですね。
門番は治安に関わる仕事、そのようにお上の権威を背景に「人に嫌われる仕事」とそれらに従事したのが明治初期まで。
明治になってからそれがお巡りさんの走りとなったというのが歴史です。
さて昨日は生酒「肥田城」について記しましたが、こちらの名は以前、拙ブログでは「高野瀬氏館 天稚彦神社」でさらりと記したことがありました。
天稚彦神社は当地の地名、高野瀬を名のる高野瀬氏のそもそもの本拠地で近くに高野瀬城址などもあります。そして宇曽川の川向うにはその肥田城も。
ちなみに前回ブログでは「キレイな水」と酒造について記しましたがその地で「高野瀬」なる酒の銘柄の存在については存じ上げませんが・・・。
境内には火伏の愛宕神社そして神社仏閣つきものの水盤と龍。
龍そのものの芸術的造形もすばらしいですがその口から吐き出される水は「手水」「洗心」とはいうものの「火勢」を鎮静させ、生き物の営みの元となる偉大なる恵み。
ここでまたあらためて「火と水」への畏怖を思ったのと同時に五輪塔の各「輪」の地・水・火・風・空の超自然の中に右往左往させられている人というものが見えたような気がしてきました。
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