先日の静岡浅間神社の鉄舟展(文化財史料館)を楽しんだあとは、静岡駅から安部川沿いに北に走る安倍街道を材木町方向に歩きました。
材木町あるいは木挽(こびき)町なる地名は浜松ほか各地に点在しますが大抵は川や運河の近くというのが定番です。
こちらは材木商や製材業が集まるエリアが町名になったものですが、その手の職人の集まる場は各静岡市内に町名として残っています。
材木は遠く山間部で伐採し谷の川淵まで転がしてから「流す」ですからうまくできた「流れ」です。川の流れを利用してその大物を運び、手近な場所(商圏)まで運んで捌くというシステムですね。
もっとも山中で伐採した大木を川まで運ぶことはかなり命がけであったことは御本山再建の歴史の中で伝わっています(→毛綱)。
神社仏閣に使用される大きな良材ともなると川→海、船に曳かれて海→川というのが手はずでしたが、いずれにせよ川は物流の拠点であり城塞化防御のポイントとなりました。
今川時代からの城塞、賎機山の麓にあって駿府城間近そして安部川の畔ともいえるこの地に材木問屋が集まったというのはよくわかります。
さて、その材木町に隣接して井宮町(「井之宮」呼びもあり)があります。
そちらに鉄舟が駿府に居た頃に住んだ邸宅がありました(場所はこちら)。
山岡鉄舟は明治二年(1869)に静岡藩の権大参事(~「権」付きですから「Part2」の地位?)に任ぜられ静岡藩士大量お抱え窮状の打開のために奔走することになりますがその際、こちら井宮の地を住処に選びました。東京に戻るまで3年以上の間を過ごしたといいます。
駿府城からも鉄舟の歩幅なら20分はかからないか・・・の距離ですね。
この地は安部川から陸揚げした木材の検査、税務に関わる施設で「十分一(じゅうぶいち)」と呼ばれた役所になります。
これは税率10%のことでしょう。
そしてまたこちらは安倍軽便鉄道の井宮駅となった場所でもありますが、その鉄道敷設の当初の目的が木材輸送とその搬入だったようです。
自動車輸送の繁盛もあって客足も伸びず早々に廃線となって歴史の1ページとなっていますが、もし東海道線静岡駅までこの鉄道が接続していればもっと多くの人々の頭の中に残っていたのかも知れません。井宮駅が静岡駅まで歩いて30分弱というところいかにも中途半端な場所でもありました。
石柱と看板の立つその地には現在「赤石」という会社があります。西側の通りの魚屋さん?の前には新しめの石柱(最後の3枚)が建てられていました。
この黒系の石はコストがかっているという主張はわかりますがテカりすぎ、反射写り込みがあってどうも好きになりません。
そしてこの位置にのこちらを見た人は本来の位置と誤解を招くかも知れません。
①は安倍街道の井宮交差点。向こうに見える緑色が賎機山。
コメントをお書きください
がつお (土曜日, 08 12月 2018 19:48)
またまた御免蒙ります
山岡姓といえば当方ご先祖を家康にお目通りさせた道阿弥ですね。
この鉄舟さんと道阿弥とつながりがあるのかどうか知りませんが、鉄舟は維新時に精鋭隊歩兵頭格となったそうで、私の高祖父も精鋭隊士で頭取の関口艮輔(隆吉)とともに酒に酔っ払って暴れた隊士を東海道先鋒総督府に引き取りに行ったなんという話もあったりして・・・。
また、江戸時代に当方のご先祖様と同じ組であった人のお墓に赤石氏のお墓があったりして何かそそられる話題が多いですね。
では。
今井一光 (日曜日, 09 12月 2018 22:03)
ありがとうございます。
拙寺に来たであろう「山岡」つながりというわけではありませんが、山岡景友という人は
戦国期をしたたかに生きた人ですね。
隠れた大河ドラマ主人公候補とも言っていいと思うのですが。