10日の報恩講日中に備えて婦人部のみなさんや楽市運営委員等が準備の為に前日9日午後に集合することになっています。
しかし予報はどう見ても雨。
前線の通過がありますので場合によっては突風も有り得ます。
ということで、9日は準備といえどもロクな仕事はできないでしょうね。
門前の幕と提灯は設置しないのは致し方ないとして本堂の幕はどうしよう・・・というところです。
テントは前日に設営することになっていますが、雨の中での作業ではくさくさしてしまいますので、昨日のうちに3張分のフレームのみ立ててしまいました。
天井のシートは当日の朝、人出のある時にやっつけるという算段です。
突風予想の中、それを張るリスクも頭をよぎりましたから。
ちなみにテントのフレームは面倒ですが最悪私1人でも立てられます。しかしさすがに1つめでイライラっときて2号3号は本堂ご本尊前でお華の支度をしていた奥方に声をかけました。
最初の2本の支柱を支えられる手があればカンタンです。
さて、私の仕事としては御絵伝を掛けるという少々面倒な作業が待っていますが、御絵伝と言えば御伝鈔といういわば解説書がセットにあります。
御伝鈔のクライマックスに御開祖の遷化の様子が描かれたシーンがありますがそれが表記、下の第六段「洛陽遷化」です。
「洛陽」とは京都の事。
勿論中国王朝の都に因んでの名ですが、「洛中洛外図屏風」や「上洛」の如く「洛」一文字でも「京」という意味になりました。
御伝承下第六段「洛陽遷化」
『聖人 弘長二歳壬戌仲冬(1262年11月)下旬の候より、いささか不例の気まします。
それよりこのかた、口に世事をまじへず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。
声に余言をあらはさず、もつぱら称名たゆることなし。
しかうしておなじき第八日午時頭北面西右脇に臥したまひて、つひに念仏の息たえをはりぬ。
ときに頽齢九旬(90歳)にみちたまふ。
禅房は長安馮翊の辺 押小路の南、万里小路より東 なれば、はるかに河東の路を歴て、洛陽東山の西の麓、鳥部野の南の辺、延仁寺に葬したてまつる。
遺骨を拾ひて、おなじき山の麓、鳥部野の北の辺、大谷にこれををさめをはりぬ。
しかるに終焉にあふ門弟、勧化をうけし老若、おのおの在世のいにしへをおもひ、滅後のいまを悲しみて、恋慕涕泣せずといふことなし。』
「長安馮翊の辺 押小路の南、万里小路より東」と聖人のいらした場所が記されていますが未だ特定できていないというのが本当のところ。蛇足ですがこの「長安」も中国首都に倣っての京都の事です。
そして延仁寺。西大谷の鳥辺野にあった火葬場の寺といわれていてやはり場所に関しては不詳です。
現在は京都市東山区今熊野にあります。
厳密いう聖人の荼毘所と断定はできないようですが当流大谷派としてはこちらが荼毘所ということで。
また延仁寺の名も荼毘所の指定も明治以降のものになります。
祖廟と本廟のダブルスタンダードがあるようお西にはお西解釈の荼毘所があるかと。
両派とも本質は「よくわからない」ということで、強く「ここです」という宣伝はしていませんね。
今熊野は東大路通。京都駅から京都国立博物館を左に見て東山七条T字交差点を右折。約500mで今熊野交差点に。延仁寺はそちらを左折して細い道に注意しながら登っていきます。
バスツアーで皆さんをお連れしたいとも思いましたがさすがに観光バスは無理でしょう。
京都国立からもそう大した距離ではありませんが、やはりあの登り道におそらくクレームが出るでしょうね。
場所的には豊国廟、阿弥陀ケ峰の南になります(場所はこちら)。
本堂の阿弥陀さんにご挨拶させていただきましたが阿弥陀さんは舟形光背を背負っている様子。
大谷派といえば放射光背を思いますが珍しい景色です。
なにか由縁があるのでしょう。
洛東山の山号がそのだいたいの位置を示していますね。
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