江州佐々木南北諸士帳 矢守城に杉立又九郎

この頃の「見苦しいもの」と徒然なるままに記せば渋谷のバカ騒ぎの件。

私どもの学生時代といえばやはり渋谷辺りで各催しがありましたが、あれほど破目を外すような無茶な振る舞いには至らなかったかと。

「みんなでやれば怖くない」という集団心理と祭りは無礼講であって少々の脱線も「許される」のだという勝手な思いがそうさせるのでしょうね。

 

特にマスメディアも煽り気味。

「○○が本番」などと報じれば成長段階の弱いお頭弱そうな若人は「じゃあ行こう」になるでしょう。それに負じとお頭の弱い私が言うのですから間違いありません。

マスコミはこの報道は放ったらかしにして当局は機動隊でも何でも動員して迷惑行為・暴力・違法行為に対しては粛々と検挙、お仕置きをしてあげるのが一番かと思います。

 

政は「まつりごと」というだけにある程度の許容と寛容の立場をとるものなのですね。民が阿呆になって適当に不満の捌け口を見つけてくれることは為政者にとって都合の良いことですから。

 

あの渋谷は世界でも稀ともいえるバカバカしい醜態を曝しているような気がしてなりません。

 

さて、昨日の矢守の続き(場所はこちらこちらも参考まで)。

矢守の中心地、というか矢守バス停の脇には矢守城(屋守城)の標識があります。

愛知川と並行して琵琶湖に注ぐ宇曽川に合流する安壷川と小河川を堀にした平城、屋敷の址です。

 

元は矢守氏の築城とは言われますが杉立高政・高秀の名が六角氏(佐々木)家臣団としてあり、江州佐々木南北諸士帳の愛知郡、矢守城には佐々木随兵「杉立又九郎」の名が見えます。

当時(永禄三年1560)は浅井氏の勢力が六角氏を蹂躙している頃でこの矢守城は浅井方の手に落ちて杉立家は平井(居)城に逃げ込んだといいます。

 

どう見ても要害性はそう感じられませんので、大軍による包囲には脆弱であることは推すことができます。

これはこの地の城館に共通して言えることですがまっ平の野原に多少の河川と小土塁で仕切ったものですからこれはやむを得ないでしょうね。

六角の観音寺城や浅井の小谷城のスケールからすれば雲泥の差。ここでも当時の力関係がよくわかります。

 

⑦は城址から街道を隔てた光源寺側の街区。小さな水路が入り組んでいる様子。

⑧は光源寺境内の御開祖像。