快晴の秋の空、本堂内からは「寒い」との声が。
寒暖計は18℃でした。
私的にはストーブはまだ早いとは思っていましたが、電気ストーブ程度の物は置くべきとの御指摘。
それもありうるかとは思いましたが本堂暖房器具といえば石油スト―ブというのが定番です。何せ本堂の電力は軽めに設定されていますので、フレーカーが落ちるのも厄介ですが、古い配線に負荷はかけたくないというのが本音。
本堂の季節の寒暖差には慣れている私ですが、「体感」一つとっても人それぞれであることがわかりました。
見回せば本堂隅には扇風機がまだ置いてあるくらい、早い所そちらは片づけて次回は小さな石油ストーブの一つも中央に置くことにしました。
さて、伝通院前「表町」の主体、伝通院といえば幕末の文久三年浪士組結成の現場となった地です。
厳密には処静院(しょじょういん)という伝通院の塔頭寺院がそれですが、山岡鉄舟と処静院住職の琳瑞が親しく、浪士組結成の意図、徳川家茂上洛の警護と攘夷という大義にのっとって寺を開放したといいます。
会の発起人は清河八郎、目付として鵜殿鳩翁そして山岡鉄舟に中条景昭、石坂周造、松岡万らが取締役として名を連ねています。
「腕に覚えのある者」という何とも勇ましい号礼によって招集され「ここは一つ」とそれぞれの何かを抱いた連中が集結しました。
彼ら230余名の兵(つわもの)どもが京都に上っていきましたが、その中に後に壬生浪士組-新選組-のメンバーたち(芹沢鴨・近藤勇・土方歳三・永倉新八・沖田総司・・・・)が居て、京都に到着するや清川八郎の本当の趣旨(過激な尊王攘夷運動)を展開するやこの集合体「浪士組」は早々に分裂しました。
江戸に戻った清河の浪士組に対して会津藩預かり(京都守護職)となった芹沢に近藤らはのちの新選組となる壬生浪士組を名のることになります。
新徴組は江戸帰還の浪士組のうち山岡鉄舟と高橋泥舟が主に再編成した幕府方江戸治安維持にあたったグループです。
幕末混乱の導火線はどこだとは言い難いところではありますが、少なからずこちら伝通院(処静院)はその一端となったことは確かでしょうね(伝通院はこちら)。
処静院は廃寺となっていて今はその門柱(不許葷酒~)が伝通院前に立っています。
この禁止標はこれまで色々見てきましたが浄土宗の寺にては案外珍しくこれまでお目にかかったみとがありませんでしたので真宗(100%ナイと言い切れます)がいかにモノを禁ずることを為さない教えかと再認識した次第です。
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