数日前に報じられた東北地方の飲酒暴走死傷事故の件、「まだまだそういうことをやらかすものなのか・・・」と落胆の思いです。
すべてにおいてその件をやらかせばいったいどういう結末を招くことになるか等々、耳にタコができるほど言われ続けている事ですからね。
まぁ結論を言えばいつものように「自分は大丈夫」なのでしょうね。
実際、この事故を起こした人は「酒を飲んだが自分は正常だった」なる不思議なことを語っているそう。
殆ど殺人事件にも等しい事案で4人も命を絶たれています。
当人と同乗者も家庭を持っているようで、その短慮がいったいいくつの家族の団欒を壊したのでしょう。
年がら年中素面(シラフ)で酒の味がわからない私は他人様の趣向についてどうこういう資格はありませんが、どうしてもその酒による大失態については一言記したくなりました。
私は飲めないくせに付き合いで飲み歩くことはよくありますが、相当若い頃に泥酔した友人の車に何度か同乗したことがありました。昔は同乗者への責任はそうは問われなかったですし、友人たちと大騒ぎした余韻(ノリ)で車を出した友人は「へいきのへいざ」で運転していたものです。
私はいつもシラフでしたので、その泥酔の運転状況は十分に把握できその過激なリスクの味は知っているつもり。
絶対に正常の運転ができる者はいませんよ。
大概は、運転手に失礼(おっかなくて運転させられない・・・の公言)がないように「喉が渇いた」と言って停車させてから自分が運転席を陣取ったものです。
若い頃、飲酒(酒気帯び含む)運転をしたことがないと言い切れる方は案外少ないのではないでしょうか。
沖縄に居た頃など夜間の国道は酔っぱらいだらけだった感ありますし。
よって今回の死傷事案は数十年も前にあったような無茶無謀を思ったものです。
一般の交通事故でさえ相手様がいらしたら軽微な傷害というものはまずなく、大層な民事・刑事の御咎めを受けることとなるのですからね。
裁判の進行も興味がありますが、4人を死に追いやった咎に加えておそらく民事では一生働いても支払いきれない金額を背負っていくことを覚悟しなくてはなりません。後悔してもしきれないことでしょう。
自分と家族が大切に思うのなら「自分は平気」「大丈夫」のスタンスは捨てた方がイイかも。
さて、昨日の白岩寺公園のその名、白岩寺は公園のある御仮屋の山の中腹にあります。
珍しく黄檗宗のお寺ですね。
黄檗宗は拙寺近くにあった宝泉寺と同様、幕府はじめ大名家等富裕層をバックに江戸期に繁盛した宗旨ですが、明治維新の際、真っ先に廃仏毀釈の嵐によって廃寺統合が進められています。檀家制度が無かったというのも痛いところです。
本堂内部について、床の石畳等黄檗宗風のものかどうかの確認はできませんでしたがその本堂からさらに公園に向かって歩くと将軍家との関わりを示唆して愛宕権現についての由来記が掲げられていました。
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