10月に入ってから半袖1枚の外仕事が当たり前といった日が続いています。
北海道在住の方からは冬の使者「雪虫」が飛んだとのことでそろそろ「初雪」の報せを聞く頃とのこと。ちなみにその「虫」についてその地の寒さとともに私は知りません。
そんな中、昨日は本堂スロープにクレオソート(防腐剤)を塗っていると何とクマゼミが泣き出しました。
先日、解体した土蔵あとからセミの幼虫を掘り出してしまったために鐘撞堂の裏の枯れ葉の下に「スマン」と言って埋め戻したのですが、まさか彼が季節を間違って出てきてしまったということではないですよねぇ。それでしたら本当に申し訳ない事をしたものです。
奥方がそれを聞いて、「独りで出てきても寂しいね」と。
当地はこれから雨交じりで寒くなるそう。
まったく気の毒な奴です。
ここで一生を終わるというタイミングですが来年まで待てなかったということでしょうかねぇ。
さて、ここ数日相良近江屋さんの山崎家について少々触れましたが私の知りうるところは野洲郡三上村の豪農あがりの麹商というところまでです。
拙ブログの「江州佐々木南北諸士帳」の「5 犬上郡」には佐々木末籏頭として山崎城主の3人の名が見えます。
まったくのあてずっぽうで犬上郡と野洲郡では少しばかり距離がありますが、何かの関係も考えられる・・・と勝手に頷いている私があります。
また一つこれも推量の域ですが「山崎」といえば「改撰仙石家譜」にサラっと登場するといわれる「山崎新平」の名があります。
その人は今のところその書物にのみを以て他所には見かけることはできない名ですがそれによると「浅井長政配下の兵」とあり、仙石秀久に元亀元年の姉川の戦いで討ち取られたとあります。山崎一統は六角(佐々木)、浅井、信長、秀吉など時代を追ってある時は主に従って滅亡離散しまたは主従の関係を変えて生き残って脈々と家を繋いでいったのだ思いますが、特定するには他の文書の出現を待ちたいところです。
画像はやはり戦国時代にあって浮沈は有りましたが希有な出世と存続を遂げた家、次から次に天下取りの配下に収まった仙石秀久(主は概略土岐家→斎藤家→織田家→豊臣家→徳川家)が天正十八(1590)に入った小諸城の石垣。壮観です。
まずは右手上方の二の丸へ向かうスロープを上がります。
④の虎口を曲がると右側に二の丸へ上がる階段が。
⑪のストレートを進めば本丸天守の石垣が。
どなたも居なくて息子が一緒に居たりしたら天守台下から張り付いて登攀したい衝動に駆られるでしょうね。
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