静岡のド田舎にいる私には殆ど関係がないことですが築地市場の営業が閉鎖されて新たな地に移転するとのこと。
一連のドサクサがようやくに収まったということでしょうか。
秘密のトラブルを抱えているようでまだまだ何か出てきそうな気がしますが、オリンピックを誘致した東京都の件(話が大分違う「コンパクトな祭典」)もそうですが、あまり私どもには関わりの無い(いや関わりたくない)事ではあります。
その築地閉鎖について、あるニュースによれば嘘かホントか、生息するネズミたちの大移動が始まってその近くの銀座あたりの飲食店ではいよいよ戦々恐々としているとのこと。
1万匹以上のネズミたちが新天地を探すといいますから。
築地の食べ物屋について食通を気取った皆さんがこぞってその美味しさについて推奨している様子を拝見しますが、その話を聞いて、好んで行くところではないな・・・と思った次第です。
「どこも同じだ」とご立腹になる方もおられるでしょうが、それだけ不衛生かつ対策もなく放置していたということですからね。今時ネズミが這い廻っている飲食店など行く理由はありません。新たな場所の環境も衛生状態も不信感漂いますしね。
ネズミは「鼠算」といって強烈な勢いで増えますし生命力はやたらと強いですからね。
東京の小ぎれいなレストランの裏にその厄介者の影を想像してしまいます。
「ハーメルンの笛吹き男」風が多く生息している場所はその銀座よりもう少し奥の永田町。そちらの魑魅魍魎にネズミたちを集めてもらえればいいのですが笛吹男たちは人をも騙しますからね。
築地での思い出は・・・昨日ブログに記した拙寺の有徳なる人、山崎貞一氏の築地本願寺で催された葬儀式です。
最近は葬儀をこじんまりとお身内だけで・・・といったカンタン形式を所望する風に変わりつつありますが、その時の葬儀のスケールは「箱」の大きさもさることながら参列者の数も半端ではありませんでした。政財界人の参列も多かったようで、静岡高校出身の元総理の顔もあったりで私の緊張度は勿論、父親もかなり気張っていてピリピリしていました。
真宗の葬儀では珍しく坊さんは5人もいましたが私は一番の年少で五人男のうちの頭数。
いずれにしろそのような盛大な葬儀式は私にとって最初で最後の経験でした。
その山崎家に田沼家の借用書が残っていたそう(現在はその存在について不明です)。
相良の郷土歴史家の後藤一郎氏の「今日の相良史話」という書にあるようです(私はその転載された書面を拝見したのみですが・・・)
それによると文政七年(1824)、田沼意次の四男意正が相良城破却以来、相良復帰復権が叶って陸奥下村藩より相良に入るにあたりその移動費、荒れた相良城址地に再建する陣屋に官舎の費用として3,253両を工面することになりますがその配分が城東郡・小笠郡で1,320両、榛原郡で996両だったといいます。
そして当時の山崎長兵衛が単独で937両を調達したそう。
期間は1年といいますが、借用書が残っていたということは・・・布施家と同様に踏み倒されたのかとも思いますが他の利権での弁済も考えられます。
昨日相良史料館の長谷川氏と話しましたが借用書が残っている場合、勿論踏み倒されたということもありますが、土地売買について御禁制の時代ですので土地の権利の移動はできません、表向き借用の躰を取る事もあったといいます。
しかしさすがにそのような見え見えの捻出方法は田沼家としてはやっと帰ってこれた相良にては憚られるかも。
御用商人とし藩内の顔として商い全体を仕切らせることによって還元させたというところでしょうがその借用書はいわゆる賃借の証というよりも「権利証文」と同等なのかも知れません。
現在のお国の借金となると状況が違いますね。
国債を乱発して無茶を積み重ねていますがいずれぶっ壊れるかもというのがまともな人の考え方。
中央に居座る法螺(笛)吹きは子孫の世代に負の遺産を押し付けようとしています。
長兵衛はそれだけのキャッシュをポンと出せる財力があったわけで、利益の再投資がたまたま殿様に向いたのでしょうが近江商人の凄さというものが推量できますね。
画像は三上山。①が大津S.A.②が野洲川の橋から。
長兵衛は本家のある三上村に戻ったところで逝去します。
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