台風の直撃予報は大幅に遅れて昨日の昼頃は風雨なし。
日差しまで出るほどでした。
法事を2件順延にしていて「なんじゃこりゃぁ・・・」と呆気に取られましたがこのようなスタンスは次に繋がるでしょう。
「自然への敬意」です。
人間の都合の「大丈夫だろう」の表意は必ずといって足元を掬われますからね。
あまりの予想外の天気に奥方と「どこかに繰り出す」ことを思案しましたがやはり自重、自重・・・一日中寺に引き籠っていました。
さて、私は相良中学校に3年生の時に小田原より転入したのですが、こちらでの学校生活には多少なりとも不安があったワケですがそれを一掃してくれて、大いにこの変人をフォローしてくれたのが久保氏でした。
彼の真面目さと包容力の大きさによって私を理解してくれたのです。おそらく他のクラスメイト達にとっては「都会からやってきたイヤな奴」的雰囲気を醸し出していた私があったかと思われます。小田原などはまったく都会とはいえないのですが。
先日その久保氏が寺にやって来て、同窓会をやるので是非にというお誘いがありました。
これまで何度もその同窓会のお誘いを受けていましたが一度も出向いた事がありませんでした。ハガキでの勧誘には返信ハガキでお断りをしていたということです。
直接その久保氏からのお誘いを受けたことに私の心は「たまにはいいか・・・」と出席に傾いたというところです。
実は内心その久保氏というといったい何故に・・・という疑問の残る書を相良史料館の長谷川氏に紹介されていました。
それが「為 久保氏雅嘱」の落款のある書です。
書は成瀬大域で三字「思無邪」~おもいは よこしま なし
明治乙未( きのと ひつじ)は明治二十八年(1895)です。
ということは大域が六十八歳。
先日蔵から出てきた大域の書も同じ年のもの。
日坂成瀬家との交流がうかがえる書面も同時に出てきていますので大域はちょくちょく相良に来ていたのでしょう。
果たして久保氏との関わりは今一つわかりません。
例によって拙寺の蔵にあったものはクシャクシャで慎重に解くように広げたものです。こちらも何とかしてあげたい一物です。
「信為萬事本」~しんは ばんじの ほんとなす
成瀬大域は真宗門徒ですのでその「信」といえば「行」に対する、つまるところ南無阿弥陀仏の称名とその信心。そこのところを汲んで書し拙寺に遺したのでしょう。
久保家の「思無邪」と同様、額装して掲げるに価する訓です。
「不信と邪」の御時節だけに。
成瀬大域は明治八年(1875)に宮中に出仕して書を天皇に、山岡鉄舟は明治五年(1872)から10年間宮中にて天皇の相談役をしていますので当然に面識はあったのでしょうね。
①②③は無風無雨の境内の昼過ぎ。
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