昨日午前は今月4回目の受診でそれは奥方も同様。
医師からは「呪いが感染したからもう来ないで」との第一声。
聞けば「喉が痛くて鼻が詰まって頭がクラクラする」とのこと。
それは「風邪です」と私が逆診断をしてあげました。
私どもは鼻づまりはなく風邪の症状ではありません。
しかし咳の具合は一向に治まる様子がなくクスリが切れたという不安(もっと酷くなるかもという・・・)がありました。
咳の症状は当初のものとは変化しています。
今は喉のスグ先あたりに何かが詰まっているという感覚で息を吸い込むとそれに空気が当たって咳こむという具合です。
咳をしていると体力を消耗してそれだけでクタクタになります。
薬を変えて処方していただきました。
これで殆ど1か月の間このワケのわからん病気と闘っていますが
いい加減何とかならぬものかと・・・。
さて、静岡関りとして全生庵の鉄舟の墓近くに眠る松岡万について記しましたが、何故にして山岡や勝などが静岡に関わったかといえば維新直後は江戸幕府のミニチュア版として静岡藩(駿府藩)七〇万石があったからです。
松岡万もその流れで慶喜の護衛として静岡に来たというわけですね。
静岡という県は富士・安倍・大井・天竜の大河ほか中小の河川が流れ、その治水の観点から水利路程掛なる役職が置かれ、石油掘削だけでなく土木工事の面でも海外からの新技術を取り込もうという方向性が模索されていました。
その水利路程掛に就任した松岡万は意外にもその英断から「神」として祭られているのです。
現在の磐田市の南側は平地に田圃の広がる長閑な場所ですが、静岡産業大学の北側に大池なる池があります。
明治初頭の「開発」ラッシュの旗印としてこの大池の干拓というテーマが掲げられることになります。
自然を破壊して人的構造物を作ってきたのが近代化だったわけですが、この大池の件には地元住民からは大きな反対意見が持ち上がります。
それが穀倉地帯ともいえるこの地で大池という一大水源が消滅することに危機感を抱いた農民たちでした。もともと水利に関して地区同士のもめごとがあった地でしたので訴えには慣れっことなっていた幕府以来の末端役人たちはその訴えを起こした者たちを捕えてしまいます(大池事件)。明治三年のことです。
その陳情を水利官として耳を傾けて現地に向かって調査し、農民の立場になって「その開拓は無効」という判断を下したといいます。
その農民の死活問題に対しての英断を住民たちは喜び松岡が生きているうち(明治九年)に彼を祀る神社、その名も「池主神社」(別名松岡霊社)を建てて彼の功績を讃え、後世に残したのでした(場所はこちら)。
その後松岡は明治八年には東京の警視庁に入っていますが、利権者を無視して弱い立場の人たちの意見を優先、開拓阻止を上申するなど今の役人さんとは違いますね。
昔の役人と言う者は公正正義に生きていたのでした。
尚、ここでいうお役人とは立法府の長に忖度する行政と特に司法の事です。
「地主神社」なる神社は聞き慣れていますが「池主神社」というのも面白い所ですね。
大池は今時少ない住宅地にある絶妙の野鳥の楽園。
磐田市の宝物です。
これが今も残るということが松岡の采配だったということを「忘れまい」という当時の民の感謝の結晶が池主神社でした。
生祀(せいし)というカタチは存命中の人間を祀ることですが、小島蕉園の徳政に礼して祭神となった件を思い出しました。
⑥池主神社は水神社のお隣。周囲には川に水路が目立ちますが古くから水争いが絶えなかったよう。こちらの北方にも水神社があります。
「命の水」その有難さを私たちは知りません。
最後の画像は大池から見た静岡産業大学(SSU)。
環境は良さげですが磐田駅からは少々遠そう。若い書生さんなら大した距離(1.8㎞)ではないでしょう・・・。
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