相良の布施新助が石坂周造から資金貸し出しの要請を受けて受け取った借用書の発行日は明治十二年の七月でした(ブログ)。
鉄舟門下として石坂は筆頭クラスのキレもので鉄舟に目をかけられていたことがわかるのは石坂の三回目の明治二年の投獄の際、山岡のとりなしで山岡お預かりとして娑婆に出してもらっているところ。
その際明治三年に鉄舟の奥方の英子の妹の桂子と再婚して「義弟」となっています。
その後信州に「石油が出た」という(殆ど眉唾的な・・・)情報を入手してからその世界に飛び込んで行ったというのが日本における石油資源開発のはじまりです(明治四年)。
「長野石炭油会社」の創設がそれでのちに「炭」が取れて「長野石油会社」。その社名から今の「石油」という語が意味をなしたとのこと。目の付け所は凄いとは思いますが・・・
彼は弁舌に長けて上から下までうまく丸め込むことに関しては右に出る者はいなかったよう。
鉄舟を特に信奉する者たちに松岡万・村上政忠・中野信成の猛者の名がありますが彼らよりもさらに一枚上手だったとのこと。
今考えれば口が上手いといえば「山師」を思いますがそもそもその語は「詐欺師」に近いイメージがありますからね。
とにかくその画期的新素材「石油」は将来の日本を背負って立つ産業になり、これからの国にとって欠くことはできない産品であることを説いて歩き、資金を集めまくったといいます。
当初の資金集めは順調に進んだ模様。
明治五年にその山師石坂(そのように揶揄された)は遠州相良の菅山に油が浮かぶ田んぼの存在を聞きつけ村上正局と共同で相良油田採掘事業を始めます。
当初はそれなりに相良油田からの産出があって(年最大720㎘余)彼の事業としては相良は成功例でした。
彼の石油に対する思い入れとその「山師」的野心は野放図に借金と開削試掘を推し進めるばかりでそれに見合った果実の伴わないものだったのでした(長野善光寺北、相良菅山→新潟尼瀬)。
まぁ「どちらか掘れば石油が出て来るかもしれない・・・」などという発想は今でいえば有り得ない事はわかりますが、当時においてそのような「夢」の見方について十分にわかりますが。
殊に黒船来航からアメリカナイズ(何でもアメリカ人のやることなすことは凄いので見習うべき)されていた世相が彼の背中を押したのでしょうがアメリカ製掘削機械の導入とアメリカ人技師の招聘にコストがかかったようです。
その技師はまったく役立たずのズブの素人だったようで潤沢資金の一部は彼への対応(雇用契約)でも疲弊したといいます。
弁舌上手の石坂も「アメリカ」にはまったくかなわなかったのでしょうね。山師もアメリカのペテン師にはかなわなかったのでした。
何やら今の状況と同じような・・・イージスアショアなる大層な装備品を買わされそうで。今聞き慣れた「生産性」とやらは皆無ですからね。
車をアメリカに輸出させてもらうため・・・のよう。
資金欠乏の石坂が頼りにしたのは兄貴の山岡鉄舟。
その援助資金を元に明治八年に石坂は渡米して最新式掘削機を買い付けますが結局すべてが徒労に終わって、財産も差し押さえられたうえ彼の会社も破産と相成ります。
その状況の中であっても明治九年には石坂の長男宗之助を鉄舟は娘の松子の婿に向えるほどですから鉄舟の石坂家に対する面倒見は半端ではなかったのでしょうね。
そこで石坂が相良に舞い戻ったのが明治十二年でした。
各油井破綻の中、こちらの相良菅山の井戸は稼働し収益を上げていましたので、まだまだその仕事に未練があったということでしょう。
その段階での借金工面が布施新助へ向いたということです(借用書)。
鉄舟は石坂の布施家の借金以前の借金の保証人になっていたようで、コツコツとそれを返済(本来の「なし崩し」)していったようです。
カネと飲み代欲しさに相良じゅうの金持ちの家に行って揮毫したという鉄舟のお話は相良に残っていますが、これらはすべて弟の石坂のためだったということですね。
その鉄舟のなみなみならぬ思いとその血縁的関係が昨日の墓の位置に現れているのでしょう。
ただの「近さ」ではありませんからね。
鉄舟門下「鉄門」の一人、松岡万は新番組隊長として慶喜と駿府に下っています。その流れで「水利路程掛」になり牧之原開墾を手掛けた中條景昭らその他交流し今の静岡茶産業の基礎発展に尽力しています。
「孤松院安息養気不隣居士」は全生庵の松岡万の墓。
鉄舟のスグ近です。③画像奥に鉄舟の墓が見えます。
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