数日来の悶絶を交え寝込んだあと初めての法事がありました。
今更「できません」とは言えませんので開式前に「こんなコンデションですが・・・」と理由と謝罪から始めました。
かなり途中咳混むだろうと覚悟の上でしたが、読経中はまったく咳混むことはありませんでした。
ビビってないでシャキッとすれば何とかなるのですね。おかげさまです。
施主は幼い頃は相良に居た方です。
大学は上智大学ということで流れで「洗礼を受けちゃった」と。
しかしながら齢を重ねてから御内佛へ向かうようになり最近はつくづく仏教徒を意識するようになったといいます。やはり祖父の法話は仏法ではなく芝居の話が主でそれが子供にとっては楽しい時間だったと懐古していました。
さて、昨日は廃仏毀釈と古物破壊の社会風潮について記しましたが叔父は当然に「寺院財産の収奪」があったと断言していました。
河井継之助の薩長閥が進める幕臣一掃の戦闘についての
「本当は私的な制裁や権力奪取が目的」との指摘はその流れとして同一でしょう。
僧籍→士族への壬申戸籍の件でも触れましたが「寺と住職」のカテゴリーを一切廃止しようという流れも一瞬ながらあったということは紛れもない事実ですからね。
寺と言う有形無形の財物を継承するに戦後のマッカーサー施策(農地改革)とともにかなり危機的な方向だったのでした。
昨日ブログでは廃仏毀釈と旧物破壊について海外知識人からの指摘からやはり古物旧物美術品について「大事にしなくては」といった「教え」を受けることによってその方向を180℃転換させていきます。太政官府が発せられ、その重要性は年を追って詳細指示も厚くなっていったのでした。
ただし末端の木っ端役人たる地方管理者にはなかなかその本意が伝わらず無茶無能な差配があったと聞きます。
明治期に入ってしばらくして多摩地区に「貯穀」物上積みの令が出た際、その反動で打ち壊しがあったといいますね。
他所から来て(薩長閥多し)イキナリ地方のトップに収まる例はあったようですが、地区現状について詳らかに計らう事もせず今風忖度だらけでただの無知振りを露呈していたものかと思います。
画像は先日の拙寺の太政官府にのっとって提出した書面でしょう、その一部分。
赤字で添削されている箇所があります。
元の文字は拙寺が承った「徳川様時鐘御用」の箇所が朱で消され「薺」の文字が充てられています。
これはおそらく・・・ナズナ。
いわゆるペンペングサということですがこれは徳川家の「葵」の葉の形に関してそのペンペンの通りの三味線のバチのカタチをかけてバカにしたのでしょうね。
それをやって何になるというのでしょう。
バカバカしい小役人の根性を思います。今も昔も・・・
それから「本山ヨリ海舩役寺」というのは初耳。
そして「領主同間独礼」の部分はちょっとした自慢の語。
「独礼」は「集団でご挨拶」とは違うよ・・・を強調したところ。
それにしても朱色で添削だらけ。
今の公文書の「のり弁」(真っ黒け)よりはマシですが。
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