その名も慈昌院弾正宮 亀山城前石橋城と石塔 

エアコン嫌いの池新田の叔母の家へ様子うかがいに。

ドアを開ければ冷風、毎度口を酸っぱくして「エアコン点けろ」と繰り返している効果があったというものです。

本当に年配者はエアコンを利用したがりませんね。

エアコンのないお宅などまたぞろありますし、その文明の利器について推奨すれば「軟弱者」のレッテルを貼られそうな雰囲気が漂います亀山らね。

それでいて「水分取れ」と言えば「喉が渇いていない」と反論してきますので手が負えませんね。

 

若い頃から「熱中症」の言葉とその対応について聞かされていなかったことによる「平気」なのでしょうね。

気候が変わっていることは違いないところ、当方のスタンスも「自然」に合わせて行かなくては。

 

さて、三河奥平氏の系譜基本軸を再記します。

 

奥平貞俊→貞久→貞昌→貞勝→貞能→信昌→家昌・・・

 

昨日記した亀山城に新しく本拠を築いた奥平氏はいわゆる「田分け」的な資産分散型の家内平等独立分与を避け、兄弟の分家はあってもあくまでもその家臣団として組み込まれ、本家を補佐するというカタチをとることによって「家」を維持してきたといいます。

 

三河山間部にあって「家」を興し維持し尚拡大していこうという惣領の確固たる意思があったことは間違いないところで、以後奥平は家康に見いだされたという幸運もありますが、その繁栄の基礎はそういった血脈家臣団の組織的で各個の献身的な働きが積み重なってのことだったでしょう。

 

本城とした亀山城周辺には血脈家臣の城塞屋敷・・・城が散在しています。

奥平貞俊が当初築いた川尻城から亀山城に処替えして成長の途を歩むわけですがその川尻を捨てた筈はありませんね。

当然に一族の者(奥平但馬守?)が城館主と守将を兼ねて入ったことは言うまでもないことでしょう。

 

しかしながら惣領が血脈一族を配して組織だった経営手腕を展開し家中まとめ上げることができたとしても、一族の中からの不満というものは必ず起こるというのが人間の歴史。

古代天皇家で起こった壬申の乱に代表される「叔父の不満」「弟の不満」等々多様ですが家督相続の件の「オレが、オレが」の個人暴走です。当初は従順であっても代替わして「我こそ」の思想が増幅すれば時として暴発したものです。

 

まずはその家臣守役による幼少期からの「煽て」教育がその将来の反旗の芽を育むというワケですが、家臣団の綻びを生じます。

しかしそのようなリスクへの対応も奥平家は家を守るために厳密粛々とかつ断固とした処断を下していることも付け加えなくてはなりません。

あくまでも「惣領家」(直系)というものがスジであってその常道への反旗は「二心」であって成敗されなくてはなりません。よつて危機思想「発芽」への対応と自浄努力は厳しさあってのものだったのです。

まぁ戦国期の「家」の興亡には骨肉の争いというものは切っても切れないというところがありました。

 

亀山城の麓には「道の駅」がありますが、国道301号を隔てたその駐車場の向かいに石橋山慈昌寺というお寺があります。

元は「石橋」という地名(現在は作手清岳と亀山城と同じ)だったようでそちらには血縁一統の屋敷、亀山城支城、「石橋城」があります。岡崎方面への街道と交差する場所で前述の川尻城よりも格段に利便性(市場部落近隣)含めた地の利は高かったことがわかりますね。

ただし単独の城というか殆ど連郭といってもいいほど本城との近さですので「城」という名称には首を傾げますが・・・。

 

奥平貞俊には3人の息子の名が見えて長男貞久に次いで(和田)貞盛、(稲毛または土佐)定武です。

「奥平」は当時は今川絶対的力関係のもとの戦働きによって領地安堵された国人でしたが、今川の「天下一苗字」風厳密は無かったにしろそれに倣ったのか公称、土着した地名を苗字にする傾向が見えます。

 

その貞久には貞昌以下7人の男子に恵まれますが石橋・夏山・萩

田代・名倉・佐脇とそれぞれの名のりをして本家を支える側に回っています。

その「石橋家」の初代久勝弾正が石橋城の主将として入りますがその子の弾正繁昌が謀反の疑いにより貞昌の子貞勝の命によって上記の土佐家でしょう土佐定雄の手で抹殺さけています。一族40余名を討ち取って穴を掘って放り込んだといいますからかなりの憤怒が伴うものだったのでしょう。

見せしめ的処断ではありますが、苛烈な骨肉ともいえるところ。

 

近くには五輪塔や宝篋印塔の残欠がまとめられた祠がありました。そもそもこちらのお寺はその墓域(奥平弾正宮)の上に建てられたといいます。その名も慈昌院、こちらの「昌」が特定の者を指すのかよくわかりませんが、後の奥平家の通字でもあります。