さすがに昨日のような陽気に4枚(襦袢+白衣+衣+袈裟)を着重ねて一時間弱の間、声を発していると読経中に幻が現れますね。「ざぶんと地頭方の海に飛び込んだら・・・」です。
年甲斐もなくそれはあり得ないと思われる方もいらっしゃいましょう。
私は沖縄時代にビーチで働いていた際、体感50℃に近いといわれるその環境で熱中症などにならなかった理由は殆ど海にじゃぶじゃぶ浸かっていたいたからですね。熱中症になって搬送される人はお客さんだけでした。
勿論その時はウェットスーツを着ていますが昼食時に従業員食道に入った際、設定温度20℃前半の空間には震えを覚えて顰蹙を買いながらも設定温度を上げたものでした。
暑いと思えば海に飛び込めば即その粗熱は解消しますね。
オフの日は近場のホテルのプールサイドへ「目の保養」に出かけたものでしたが即プールに飛び込むという時間の過ごし方をしていました。懐かしくまたそういった無駄な時間を湯水のように使いたいものです。
良質のビーチやプールが無ければ・・・昔から日本には行水がありました。体温を下げるにはアレが一番でしょう。
今はシャワーという文明の利器がありますのでそれを頻繁にでも使用すればいいのですが、案外一般に「風呂は夜寝る前」という固定観念があるようで適宜行水・シャワーをというお気軽感はないような・・・。
昨日は熱中症とみられる症状で救急搬送された人が全国で1000人を超えたといいます。静岡でも1名亡くなったとのこと(全国で3人の死者)。
西日本水害の復旧作業の方たちはその意味ではかなり過酷ですね。水道インフラが損壊していますのでクールダウンをしたくてもできません。それを考えるだけでも苦しくなってきます。
息子はといえば彼の場合は拙寺外壁の木質部分への塗装作業(一昨日は溝さらい)。
午後の直射はかなり痺れたと言っていましたね。
塗り方については細かく「指導」しましたが、熱中症予防に関しては一言も差配せず。
自己の責任でもってやってもらっています。
Wカップはいよいよ佳境。
私は以前からクロアチアに秘かにその快挙をと狙っていましたが、恒例の鰻重バクチに関しては友人の「奥の墓道氏」もクロアチア党のため不成立。
また、かの国の快進撃も疑心暗鬼だったためまさかここまで・・・の感。勝って欲しいが・・・ダメかも・・・と。嬉しい限りです。
サッカーに「ティキ・タカ」なる語がありますが、一言で「パスサッカー」。日本サッカー協会が好きそうな戦術でおそらくそのサッカーに戻そうとしたのが今回の監督更迭劇でしょう。
ハリルは簡単に言えば今のフランスサッカーの如くのタテ一本のカウンター。
要は走りまくるサッカーで選手の疲労度は過酷です。
ということで若返りできないチームにとって「走る」のは辛いということだったのかも。
しかし待ってくださいよ・・・。走らないサッカーってあります?
少々甘いのでは・・・日本のサッカー。
そしてクロアチアのサッカーは左右タッチラインをフルに(オープンに)活用した「速攻と折り返し」のサッカーの感。
フランスもクロアチアも無茶苦茶に走りまくるサッカーなのでした。棒立ちの選手などイラないのです。
特にクロアチアのモドリッチはその風貌を奥方は「カッコ良くない」とはいいますが、彼の献身的な走りを見れば私どもには涙がちょちょ切れそうになってしまいます。「走ってナンボ」がその競技の醍醐味ですから。
私はベスト4に揃った国々を見て「パスサッカー」全盛は終わったと確信したのでした。
一言付け加えれば「カウンター狙い」は小中学校のサッカー、「オープン」(ウィング攻撃)は中高のサッカーで特に珍しいことでも驚く事もありませんね。
ベルギーの3点目を驚愕している風がありますが、成り行きとしては当然でしょう。
それをノーケアだった日本がヘタクソだっただけでしょう。
快進撃の形容の言い過ぎでしょう。冷静に考えれば勝ったのは1回だけ。それも10人のチームに・・・。
それは個人技は大切ですが、スピードと持久力を兼ね備えた選手
がこれからは持て囃されるでしょうね。
モドリッチは欧州190㎝超えまたぞろの中、身長172㎝とプロサッカー選手では低い方のレベル。
勝手にプラトーンのウィリアム・デフォーをイメージして私たちは彼を「プラトーン」と呼んでいます。「献身的」な指導者・・・
ブラジル・アルゼンチン・スペイン・ポルトガルの優勝を予想していたサッカーファンを尻目に、ここは一つプラトーンのブレイクを期待しているところです。
画像③は我が家のクロアチアファンとしての象徴。④は思わず出遭った蚊野外の御霊神社の宝塔。あの文様は・・・クロアチアの優勝を示唆しているかも・・・。
さて画像
①「相良城下町絵図<要家文書>」天明七年(1787)頃
②「家中離山之節備(かちゅうりざんのせつそなえ)
<要家文書>
史料館学芸員の長谷川氏が偶然発見した古地図です。
岸和田藩の岡部関わりの地図で藩中有力庄屋七軒のうちの現貝塚市畠中の庄屋源太夫家から出たもので管理は貝塚市教育部社会教育課。
天明七年に相良城が幕府管理下に置かれますがこの相良城の受け取り役を担当したのが岸和田藩主岡部長備(おかべながとも)。この時七人庄屋が藩主への御機嫌伺いとして相良へあいさつに参る際に①が作成されたといいます。
以下貝塚市御担当解説転記
「①を詳しく見ていくと、中央北側から「東」に向かって「汐入川」(上流は「相良川」とある)が「海」(駿河湾)に流れ、この川から相良城の外堀(「シホ入ホリ」)に水を引き入れています。内堀は本丸(「御殿」)を取り囲むように、さらに二ノ丸にも本丸とつながる内堀がめぐらされており、外堀と内堀の間に三ノ丸があります。城下は城の南東側海までの間に「町屋」があり「市場町」「新町」「福田町」「大横町」の町名が確認されます。城の南西側は「屋敷」と書かれており、武家屋敷が立ち並んでいた場所でしょう。西端に「百ケン長や」とあるのは、足軽など下級武士の住まいと思われます。「大原口」を出ると「此(この)東ニ小松ノ並木五丁計(ばかり)アリ」「金谷へ四り」とあり、ここから、東海道金谷宿に通じる街道が延びていたことをうかがわせます。また、海には目印となる「屏風岩」とともに、船が大小五艘描かれており、海上交通で賑わっていたことが読み取れます。全体に彩色を施し、凡例に白色が「屋敷建物」、黄色が「場并(ならびに)道」、青色が「堀川」、赤色が「神社并門々」として色分けしています。」
②「相良城を受け取りに来た岸和田藩の一行が相良を離れる際の軍備えで、「御」(=岸和田藩主岡部長備)を中心に、鉄砲・弓・長柄など武器を携えた者や、馬印、馬廻り、供廻り、甲賀士などの軍団が三ノ丸に配置されています。軍団の両側にある「御使番(おつかいばん)」「御留守居」と、「二ノ丸口門」の横に控えている「公儀御役人」はそれぞれ幕府の立会人であると思われ、①とともに作成されたものと考えられます。
意次は相良藩主としては、宝暦8年(1758年)に入封し、明和5年(1768年)築城に取り掛かり、安永8年(1779年)に完成させました。養蚕や、ろうそくの原料となる櫨(はぜ)の栽培を奨励し、瓦焼きを助成して防火対策を進め、食糧の備蓄制度も整備しました。また、相良湊を拡張・整備して、大坂~江戸間の海上交通の中継港とし、さらに相良と東海道藤枝宿とを結ぶ相良街道(田沼街道)を整備した名君として、地元では高く評価されています。
注記:近年の研究で、その後政権を握った松平定信ら反田沼派や一橋家によって作られた悪評であり、先見的な資質をもった政治家として再評価する説が浮上しています。」
最後の文言に「憎き岡部」のイメージが消えていきました。
コメントをお書きください