生まれた意義と 喜び~ 京都市との協定 本山

先般の大阪北の震度6.5弱地震の件。

昨日は突然に当家の愚息が帰宅してきましたが、あの地震発生時はたまたま某所にて晨朝のお勤め中だったそう。

眠気眼でうつらうつらしていると、突如と揺れだした建物の天井から埃が舞いだし、読経は中止になってテーブルの下に逃げ込んだといいます。

その後見舞われた豪雨でもズブ濡れになるはでロクな1か月ではなかったと。

 

まぁ「命があるだけイイし 感謝しろ・・・」というしかありませんがそれにしても「災難」というものはどこにいるか、どこで遭うかによってまったく違う結果になるということをあらためて気が付きます。

私は以前の駿河湾沖の地震以来、あれ以上の震度にはショック死を起こしかねません。

爺さんが小さな地震であっても庫裏から褌一丁で我先に逃げ出している姿は当初は嗤って見ていましたが今の私は爺さん以下の小心となっています。

そもそもあの時その場に居合わさなければそんな心地にはならなかったワケで。まぁここ数年で日本全国「安全」な場所など「有りゃあしない」と踏んでいます。

 

やっぱり、以前にも記していますが良寛さんのコレですね。

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候

       死ぬ時節には死ぬがよく候

          これはこれ災難をのがるる妙法にて候」

それを思い出してもはやどうでもよくなりました。

これは「こだわらない」といういい意味で。

ちなみに大阪教区内には650カ寺の大谷派のお寺があるそうですが山門や屋根の崩落はじめ48カ寺に何らかの被害があったよう。私もまったく酷い目にあったという実感がありましたが、「いのち」があるだけヨシとしなくては。

 

 

さて「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」(Let us discover~)は当流「慶讃法要」のテーマです。

それを新しいものに改めるかどうか・・・について論じられているようですが、このままで十分にすばらしいことから継承したいという意見がありますね。

私にもひとこと・・・言う権利があるとすれば「そのまま」がイイですね。

 

まだまだ若い人たちの中で「その意義も喜びも見つからない語れない、そして自暴自棄」という方たちがいるようですので何とか地道にでも少しずつ「いのち」の重大性について説いていければと思います。

 

当真宗大谷派では今回の水難災害に併せたようなドサクサ大量処刑について「死刑執行の停止、死刑廃止を求める声明」を出しました。

仏教の教えの通り、まったく道理にあったものです。

死刑のハンコをついた法務大臣殿はクリスチャンといいますが、信条に反する差配であってもお仕事としてなら「殺せる」というのならばひょっとして真の信者ではなかったのかも知れませんね。

まさか他者立候補者差別化のため(穏健さが漂いますので)の選挙対策の政治利用、俄か信徒なのかも・・・とも穿って考えてしまいます。

とにかくそれについて論議から始めなくてはね・・・、このままでは皆さんの大好きな世界の一流国にはなれませんよ。

それこそ私にはどうでもイイ事ですが。

 

本山は京都駅前という好立地ということもあって(お西も同様)「大規模災害の帰宅困難者のための協定」を京都市と締結しているとのことですが、今回の震災でも開門を保ってスタッフ30人の緊急招集があったといいます。

結局は待機のみで終了したそうですが、聞けば備蓄倉庫には発電機やら食料品もあるようです。当山では御厄介になることばかりを考えていましたが、ご奉仕する立場もあることも念頭に入れておく必要がありますね。

画像④の赤丸の彼は以前記した彼と同じです。

また③の阿弥陀堂向かいの松ですが、ある若い方が「お父さんの遺骨を内緒でココに少し撒いちゃった」と。

秘密の散骨のぶっちゃけ話には驚かされましたのと同時に、(こっそりバレなければ・・・失礼・・)散骨とはそんなものかとも思わされた次第です。